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第11話

「ん、そうね」

 会話が途切れた。ちょうどそのとき最初に注文した野菜の天婦羅が来た。

「おいしいの。食べて」

 彼女に促されるままに塩をつけて口に運ぶ。

 軽い。それから風味が香り立つ。

「うまい」

 思わずつぶやいていた。

「でしょう、このお店はね、もともと野菜が売りだったの。だから野菜の天婦羅はおすすめ。あと魚介もいいけどね」

 彼女はそう言ってから箸で自分の分をそっと挟んだ。何気なく目をやって、彼女の薬指にはどちらもリングがないことに気づいた。

 胸がいっぱいになった。


 9時ころを見計らって切り上げることを提案した。本当はずっと話していたかったが、明日は仕事だろう。気を使った。

 店を出て、急にあらたまったような雰囲気になる。少しだけ決まりが悪いような独特の間。

「今日はありがとう。ごちそうさま!」

 もう、限界だ。

「あの、本橋さん、また会っていただけますか」

 早くも歩き出そうとしていた彼女の足が止まった。俺をじっと見る。

「とても、楽しかったんです。またお会いしたい……」

 彼女に迷いの色が浮かんだ。俺はぐっと気を張り詰める。

「いいよ」

 少し考えたようだった。でも俺はそのときの眼を決して忘れないだろう。

「あれ、君、煙草やめたの」

 休憩時間に机に向かって考えこんでいると、飯田が声をかけてきた。いつもは屋外喫煙所に直行する俺が動かないので気がついたようだ。

「うん、そうだな」

 あいまいに答える。

 そう、俺は禁煙することにした。きっかけは、もちろん本橋涼子。彼女の前で吸ったことはまだない。何となく、嫌われそうで怖かった。それならいっそのこと禁煙してしまおうと思ったのだ。

「何で」

「健康に気を遣うようになったのさ」

「ふうん」

 釈然としない顔で飯田が答える。ついこの間飯田の告白を笑って聞いていた俺が、自分も出会って間もない人にすっかり気持ちを持っていかれたことは伏せておく。

「それでさ、例の」

 飯田は声をひそめた。

「木場さんと会ってもらう日取りなんだけどさ。今度の土曜日でどう?」

「土曜か」

 俺は考えこんだ。できたら、涼子にまた週末に会いたかった。

「できれば、金曜の夜がいいな。無理?」

「そう? 彼女の職場はちょっと離れてて。品川の方なんだ」

「ここから品川ならそんなにかからないから終わったら二人で直行するってのは?」

「ああ、それなら彼女も楽だと思うし」

 飯田が気楽に了解したので少しやましいながらも俺はほっとした。

 その日の帰りだった。いつものようにJR新宿駅西口で飯田と分かれ西武新宿駅方面に向かうとき、横断歩道を渡る手前の路地から声をかけられた。

 中野専務が黒い鞄を両手で下げて会釈してくる。俺も会釈して通り過ぎようとすると、彼はぐいと近寄ってきた。様子がおかしい。

「神楽さん、実はお伝えしたいことがございまして、少しお時間よろしいですか」

 言葉は丁寧だが妙な緊迫感がある。土曜に下落合で見かけた彼の横顔がよみがえった。何かひどく急いているような表情だった。

一瞬迷ったが、断ってもまた次を要求されるだろう。高田秀俊の家族からの伝言なら電話で済むはずだ。何か彼なりの用件がある。だったら、先日の馬場のときのようにさっさと蹴りをつけてしまおう、そう思った。

「いいですよ。特に予定もないので。喫茶店にでも入りますか」

「いえ、ついてきてください」

 中野は緊張を解かないまま歩き出す。俺は首をひねりつつも後についた。

 驚いたことに彼は小滝橋通りを少し行ったカラオケボックスに入っていく。繁華街をそれているので看板は古臭く小さな店だった。

 これは極秘の話だな、と見当をつける。にわかに好奇心がわいてきた。

狭い通路を通って部屋に入る。俺は扉を閉めた。

「何か注文しないとおかしいでしょう」

 受話器をとって適当にアイスコーヒーを二つ頼み、ソファに座った。中野は鞄を横に置き沈黙している。

 店員がアイスコーヒーのグラスを置いて出ていった。グラスには大きな氷が詰まって、隙間にコーヒーが入っているみたいだ。何となくそれを見ながら中野専務が切りだすのを待った。

「神楽さん」

 ついに彼は声を発した。感情のこもらない低い声。

「単刀直入に言いましょう。あなたに訊きたいことがある」

 目を上げると彼は血走った眼を見開いて俺を見ている。ただ事ではなさそうだ。

「訊きたいこと、ですか」

 努めて冷静な声で返す。

「社長の、高田の遺したという最期の言葉を、私に教えてほしいのです。そして……」

「ちょっと待って。それはもしかしたら、高田さんのご遺族の方に俺のことは伝えていないということですか」

 中野は頷いた。そうすると先日の電話では嘘を言っていたことになる。家族は今取り込んでいるからのちに連絡をよこすというあの伝言だ。なんだ、そうとは知らずに俺は家族のことを気にしながらひたすら連絡を待っていたというわけだ。

「何であなたに教えなければならないのですか」

 俺も態度を変えて強い声音で問いただした。信用できない相手は即敵と認定する、それが正しい方法だ。

「ご家族にはおそらく意味の分からない言葉です。社長は仕事上の重大な案件を抱えていました。そのことに関する言葉を遺されたに違いないのです」

「何でそんなことが分かるんだ。違ってたらどうするんだ」

 「ミサキ」……。高田社長の最期の言葉が、中野の言う「重大な案件」にかかわるもののようにはあまり思えない。俺は人の名前ではないかと考えている。中野は思い違いをしているのではないか。あの会社にとって極めて重要な何かのヒントや指示にかかわるものだと思い込んでいるのではないか。「ミサキ」にそんな意味があるとは思えない。

 本当の最期の言葉をむしろ教えてしまった方がいいのかという考えも浮かんだ。そうすれば、彼らは自分たちの探していた言葉ではなかったということに気がつくのではないか。迷っていると、彼は鞄から茶封筒を取りだしてテーブルの上に置き、俺の方に移動させた。

「何の真似です?」

 冷ややかに言った。こんなやり方を見せられると、一瞬の迷いは吹き飛び、絶対に高田秀俊の言葉をこの男に伝えてはいけないという気がしてきた。

「50万円ありますよ」

 今回初めて中野は笑って見せた。媚びるような下卑た笑いだ。ますます俺の心は頑なになっていく。

「こんなものはいただくいわれがないですから。俺はあくまで、最期の言葉はご遺族にまずお伝えすべきだと思っています。あとはご遺族の判断です。違いますか」

 中野専務は苦々し気に舌を鳴らした。いよいよ本性が現れてきたか、と俺は心で身構えた。

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