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第13話

 軽はずみだと舌打ちしたい気分だったが、表情には出さなかった。

 もし。

 もし高田秀俊の妻か娘の名前なら、馬場はそのことを言うのではないかとも思った。

 しかし馬場は何か思いついたようでもなく黙っている。俺が続きをいうのを待っているかのようだったが、これ以上俺が口を割らないと見てとったのか、口を開いた。

「それは、名字ですか、名前ですか」

「名前です」

 適当に俺は答えた。

「漢字は?」

「さあ」

「知らないんですか」

「ほんの行きずりの知り合いですから」

「そういう人が、わざわざ通報してくるんですか」

「知りませんよ」

 実際知りようがない。頭の中では涼子に違いないとは思っているものの、それにしたってどうやって俺を見つけて手早く判断し通報したのかは知るところではない。

「……神楽さん」

 明らかに話頭を転じる口調で馬場は言った。

「お強いんですなぁ」

 思わずふんと鼻を鳴らした。

「空手の有段者だそうじゃありませんか」

「今は稽古してませんがね」

「小学生の頃から大学生まで、全国大会も常連だったとか。いやはや、人は見かけによりませんな」

 急に馬場は大口を開けてはっはと笑った。なおのこと薄気味悪い。

「で、先ほどの件を詳しくお話いただけますかな」

 俺は諦めて、会社から出て小田急ハルク前を差しかかったところで中野専務に声をかけられたこと、大事な話があるということで小滝橋通り沿いの古いカラオケボックスに連れられていったこと、そこで単刀直入に高田秀俊社長の最期の言葉がなんであったか訊かれ、50万円を見せられたが拒否したことなどを離した。

 馬場からすればいつになく素直に話す俺が少し不思議に思えたらしい。俺の方も、さっき口走ってしまった「ミサキ」の名前のことを紛らわせたい心理が働いて、馬場の関心を引くように協力的に応じていたのだ。

 さらに俺は、高田社長の家族に会いたい旨を中野専務に伝えておいたが、中野は実際には伝言を伝えていなかった、つまり俺の頼みを反故にしていたことも話した。それから今度はこちらから尋ねた。

「あの会社、高田商会ってのは、何か後ろ暗いところのある会社なんですかね。専務がチンピラ引き連れてスタンガンなんぞ持ち歩いてるとはあまり普通ではない」

 馬場は目を細めた。俺は嫌な気になった。

「さあ、それは我々もこれから、今夜の事件も受けて調査しませんとね」

「そもそも社長が銃撃された時点で調べてるんだろ」

「まだつかめてはいませんよ」

 まったく信じられない。

 こいつはキツネかタヌキだ。

「やくざのフロント企業じゃないのか」

「さあ」

 馬場は聞くだけ聞いてのらりくらりを始めた。

 俺は処置なしと思った。が、次の言葉にはっと目を上げた。

「本当に最期の言葉は誰にも話してないんですね?」

 なぜ馬場までがここを聞きたがるのか。さっきの自分の失敗が頭をよぎり、ほんの少しきしむような動揺を覚えたが、俺は答えた。

「言いませんよ。ご家族に伝えるだけです」

「ここは警察ですよ」

「拒否する」

 織り込み済みだとでも言いたげに馬場は顎を上げた。

「まあ、いいでしょう。大したことではない。ところであなたは学生時代もずっと空手に勤しんでいたという訳ですな」

 妙だぞ、と俺は思った。急に馬場の態度が変わったというか、何か、そう、時間稼ぎを始めたかのようだった。実際、なぜ今学生時代の話なぞ始めるのか。

「もう調べることがないのなら、俺を帰らせてくださいよ」

「いえいえ、大事なことをうかがいたく」

「……」

 嘘をつけ、と内心でののしった。

「ところで私は以前新井署にいたこともありましてね」

「は?」

「中野の南口の方の新井ですよ」

「それが何か」

「警察病院が近くて助かってましてね」

「それで? 何か持病でも?」

「昔は陸軍中野学校があった場所です」

「か、関係ないでしょ。いい加減……」

 そのとき外に気配がして警察の男が手招きした。応じた馬場は戻ると手のひらを返したかのように、

「神楽さん、今夜は遅くまでご協力ありがとうございました。もうお帰りいただいてもけっこうです」

 という。

 そもそもこいつに指図されるいわれはない。俺は無言で立ち上がっていた。

   新宿署を出て大ガードの方に向かいながら、俺はさっきの馬場の振る舞いの奇妙さに気をとらわれていた。と同時に目では周囲を伺って涼子を探していた。涼子がずっと西新宿の路上で待機しているとは考えにくいが、そうせざるをえない気持ちだった。


 今度は横断歩道を渡らず、大ガード下を思い出横丁を右手にちらりと目をやりながら通り過ぎた。

 涼子がひょっこりと現れることを期待していたが、かなわなかった。

 時計を見ると8時過ぎ。

 この時間ならまだ大丈夫だろうか。俺は西武新宿線の改札を抜けると、右手に停車している各停の車両の先頭に載った。

 急行や準急を待つ人が多いのか、まだ車内は空いていた。俺は腰掛けることができた。

 そこで初めて気づいたが、右腕に傷がある。とはいっても浅い傷だ。

 あの中野専務とチンピラども。やることは浅はかだが、いったい何が狙いなんだろう。それに、涼子は何か知っているのか。こんなにタイミングよく近くを通りかかって通報するなどありえなくはないか。

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