涼子。
近くにいたのなら声をかけて欲しかった。いや、涼子だってあんなうさん臭い連中がいると気づいたら怖かったのかもしれない。何といっても細身の女性だ。だから俺のために新宿署に通報を入れたに違いない。
やがて各停は走り出した。すぐに降りるので鞄は膝にのせていた。
高田馬場で急に大勢が乗りこむ。俺は座席を立った。
すぐに「下落合」だ。人垣を抜けてホームに降りる。先行方向の改札に歩く。念のため、周囲の人物を見回した。学生風や仕事帰りの老若男女。怪しい人影はない。
新目白通りに出て信号で向かい側にわたる。以前一度来ているから、高田家の位置はもう見当がつく。
家垣の合間に小さな古ぼけた社。お稲荷さんが多い。
通りから少し入ると薄暗く、街灯の灯りが明るく感じられる。
坂を上りきって、高田家に向かった。あのとき見かけた中野専務のかりかりしたような横顔が思い出される。
中野専務は今夜は新宿署だろうか。
例の突き当りを右に曲がり、俺は高田家の門前に立っていた。
中野が俺のことを伝えていなかったことが分かった以上、遠慮はいらない。ベルを押した。
返答はない。
お屋敷とはいっても造りは古い。もしたしたらうまくならなかったのかと思ってもう一度押そうとしたとき、気配がして玄関が細く開いた。家の中から黄色っぽい灯りが漏れる。
逆光で分からないが、小柄でふくよかな感じの女性がじっとこちらを伺っているのが分かった。
「こんばんは。こんな遅い時間に申し訳ありません。僕は神楽圭介と申します。実は、ご主人の不幸に立ち会ったものでして」
女性はぼんやりと俺を見上げている。気がついた。この女性は高田社長の奥方ではないようだ。
「助けて」
絞りだすように彼女は言った。
「美沙子さんが、倒れて……美佳ちゃんが、いないの」
状況を読んだ。
この人は誰か親族の者、高田社長か高田夫人の妹か姉だろう。顔色が白くうろたえている。
「失礼」
俺は言って丁寧に彼女の押さえたドアを開いて――そう、あくまで彼女を刺激しないように丁寧に――玄関口に身を入れた。
品のいいランプが照らしているものの、どこか冷え冷えとした屋内。
「どこですか」
振り返って俺は女性に尋ねた。彼女は何かに弾かれたように動きだし、俺の先に立って突き当りの部屋へといざなった。
女性が倒れていた。
仰向けだが、長い髪が乱れて顔の上にかかり、表情は見えない。
俺は顔を寄せて瞳孔を確かめ、息を確認し、脈を診た。
死んではいない。俺はほっとした。長いクリーム色の布を羽織っている。
彼女は高田夫人に間違いない。品がよく掘りの深い顔立ちだった。
「救急車は?」
俺の声が咎めるように聞こえたのか、ふくよかな女性はびくりと体ごと反応しやや保身的に答えた。
「あ、まだ。……電話に出ないから心配になって、あ、合鍵は持ってるんです。美佳ちゃんも、探さなきゃ」
「美佳ちゃんというのは娘さんですね」
俺は先日のどこか儚く見えた少女を思い出していた。
俺は動揺している女性を尻目にまずスマホで119番を入れた。そしてなるべく優しい声音で諭すように何があったのかを訊き出した。
彼女の話はこうだった。
彼女は高田馬場に住んでいて近い。高田社長の一件があってから、毎夜念のため高田夫人に電話をすることにしていた。美佳という娘もいることだし、軽はずみなことはしないであろうと信じていたものの、夫人のあまりの落胆ぶりに不安を感じていたからだ。
電話には夫人の美沙子か娘の美佳が出た。いつもたわいない話をして、変わりのないことを確かめていた。
ところが今夜に限って電話は鳴りっぱなしで誰も出ない。夫人のスマホの方にもかけたが出ない。美佳のスマホの番号はうかつにも聞いていなかった。
何度かかけて出ないので、ついに彼女は馬場でタクシーを拾って直接この家にやってきたという訳だ。合鍵は持っていた。それを使って恐る恐る入って見ると、この状況だったということだ。
きっとこの40代ほどのあまり世間ずれしていない女性には一つの冒険だったのかもしれないと俺は思った。彼女は高田社長の妹だということだったが、美沙子夫人とは大学の同級生で仲が良く、よく行き来する仲だったという。
「俺は、美佳さんを探してきます」
女性は目を丸くした。
「急いだほうがいい。美佳さんの特徴を教えてもらえますか」
実は先日遠くからだが姿を見ていたので、見たら分かる自信はあった。
俺はそのまま屋敷を飛びだした。
この辺りは閑静な住宅街でお屋敷と言えるような大きな家が多い。かつ大きな樹木、マンションの影、薄暗い公園や小学校などの敷地。隠れるような場所はいくらでもある。
街灯も少なめで店も通りに出るまでない。
探すといったらどうすればいいのか。しかたなくスマホを取りだして馬場からの着信を探し出し、折り返しの電話をした。
「どうなされました」
さすがの馬場も俺からの電話に少し驚いているようだった。
俺は手短に状況を説明した。119番はすでにかけているが、急いで高田社長の自宅に行って美沙子夫人の容態を確かめること、俺は近辺をとりあえず探してはいるが、娘の美佳を探し出すために警察に来てほしいこと、この2点を簡潔に伝えた。馬場は了承し、電話口で何か指示するような怒鳴り声をあげつつ通話を切った。
今日もとんだ日になったものだと俺は思う。一体ここのところの騒ぎの連続は何なんだ。高田社長が俺の目の前で撃たれた。それがすべての出発点だ。
それにしても。
美沙子と美佳。ふたりともミサキではなかった。
当て推量は見事に外れていた。「ミサキ」。その言葉には他の意味があるというのだろうか。
車のあまり入らない細く入り組んだ道ばかりの地だ。
まずは家の周囲を探してみるとしても、あとは美佳の行きそうな場所も考慮すべきだった。しかし俺は美佳のことは何もしらない。それに母親の美沙子はあの状態だ。
「くそ!」
俺は暗がりの中で悪態をついた。