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第23話

 神田川の見た目はよくない。

 巨大などぶ川というのがふさわしい。

 けれども、遊歩道は整備されていて歩くのにちょうどよいのだ。桜の木がずっと植わっている。何とはなしに、早稲田・江戸川橋方向に俺たちは歩きはじめた。

「静かなのね」

 涼子の涼し気な声が耳に心地よい。

「桜のシーズンはお花見客が酒を飲んでるんでしょうけど、今の季節なら夜わざわざここを歩く人もあまりいないみたいです」

 新目白通りから少し入った遊歩道だ。新目白通りは整備された道路だが、交通量はさほど多くはない。

「さっきの早稲田通りじゃうるさくて」

「うるさいの、嫌いなの」

「いや、そんなに気にする方ではないけど」

 涼子と二人だから落ち着ける道を歩きたかったというのが本音だ。

「私はね、案外雑踏って好きなのよ」

「そうなんですか」

「ほら、前言ったように何もない田舎に育ったでしょう。夜になると虫の声と蛙の声ばかり、あ、夏はね。それがさびしくて」

「涼子さんでもさびしいなんて思うんですか」

「あら、ひどい。でも、そうね、卓也がいたから本当にさびしいと思ったことはないかもね」

「卓也……さん、弟さんですね」

「そう。私と卓也は親戚の家の離れで育ったの。親戚は私たちをひきとるのを快く思ってなかったのね、しぶしぶという感じで。でもそれは助かったの。おじさん、おばさん、いとこたちに常に気をつかわずに済んだから。私と卓也、ある意味自由にその離れで暮らしたのよ。環境はひどかったけどね」

 そう言いながら、彼女の表情は懐かしむような晴れやかな表情だ。弟がいて、けっして不幸ではなかったとでも言いたげに。

 弟。俺とそんなに変わらない。

『なんか、妬けますね』と思わず口にしそうになって、俺は慌てて言葉を飲み込んだ。

「弟さんは今?」

「行方不明なのよ」

「え?」

「でも大丈夫。身近な場所にいるって、なんかわかるんだ」

「心配じゃないんですか」

「たまにスマホに連絡はくるから」

「ああ、それはよかった」

 川の流れの音が下の方に微かに聞こえる。ぽつりぽつりと灯る街灯の光がにじんでいた。

 二、三歩先の地面の辺りで緑の宝石が二つ動いた。

「あら、猫」

「猫ですね」

 整った顔立ちの白猫だった。まだ若い。驚かさないように知らぬふりをして脇を通り過ぎた。

「猫が好きなんですか」

「動物はみな好きよ。でも、さっき言ったような育ち方だから、飼ったことはないの」

「涼子さんて、どこか猫に似てますね」

「それは誉め言葉?」

「もちろんです」

 しなやかでとらえどころがなくて、いざというときは素早くて。

 しばらく沈黙が降りた。それでも気まずさはまったく感じない。むしろうれしくて俺は柄にもなくどきどきしていた。

 右側の新目白通りに電車の音がした。レールがきしむような音。涼子が見るともなく見ている。

「東京に残った最後の路面電車ですね。都電荒川線。そろそろ終点の早稲田だからブレーキをかけたんでしょう」

「いいわね、路面電車って」

「乗りますか」

「え」

「早稲田駅から折り返しですぐに出ると思いますよ」

「そう、ね」

「こういうのも案外いいですよね。お互い新宿界隈で毎日過ごしていると、息抜きしたくなりませんか」

「息抜き……か」

 不思議なことを聞いたかのように涼子は同じ言葉を繰り返した。

「大塚まで乗りましょう。帰りが山手線で楽だ」

「そうね、じゃあ」

 俺らしくもなく素朴なデートだった。デートと呼べればの話だが。経費は運賃のみ。でも意外にこういうひと時もいいものだと感じている。もしかしたらここ数日にいろいろなことがありすぎて、自覚はなくても神経が疲れているのかもしれない。

「そうそう、話したいことがあったら言っていいわよ」

 涼子が気を利かしてくれたが、もう俺はこうして会えて一緒にいるだけで胸がいっぱいで、何も話さなくてもいいと思っていた。

 細い道を抜けて新目白通りに出た。目の前に都電荒川線早稲田駅があり、先ほど通過した車両が停まって折り返しの客を待っている。簡素な造りの屋根から灯りが落ちている。

 俺と涼子は道路を渡って駅の中に入った。

「涼子さん、都電乗ったことありますよね」

「まあ、少しは。でも乗ったことはある、という程度」

「案外そんなものなんですね、用がなければ乗りませんもんね」

 前から乗車して、都心のバスと同じように先にお金を払う。俺はPASMOを使ったが、彼女は現金だった。

「あれ、IC定期持ってないんですか」

 言ってから気づいた。

「そうか、初台からなら……近いですものね。自転車、いやもしかして歩いて?」

 彼女はヒールのない靴を履いていた。これまで2回会ったときもそうだった。

「ふふ、そう。ウォーキング代わり」

「健康的ですね」

 当たり障りのない会話でも楽しかった。


 俺と涼子は横に並んで座ったが、帰宅の客で中はだんだん混んできた。この時間帯なので老人や子どもはいない。大体がサラリーマン風だった。

 ごとりと車両が動き、走り出した。チンチン、とベルが鳴らされる。

「さっきの子」

 涼子がぽつんと言った。

「いい子ね」

「美佳ちゃんですか」

「ええ、それにとても賢い」

「家庭教師がよかったんですよ」

 俺は冗談めかして言ってみたが、涼子は何かにとらわれているような眼をした。

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