神田川の見た目はよくない。
巨大などぶ川というのがふさわしい。
けれども、遊歩道は整備されていて歩くのにちょうどよいのだ。桜の木がずっと植わっている。何とはなしに、早稲田・江戸川橋方向に俺たちは歩きはじめた。
「静かなのね」
涼子の涼し気な声が耳に心地よい。
「桜のシーズンはお花見客が酒を飲んでるんでしょうけど、今の季節なら夜わざわざここを歩く人もあまりいないみたいです」
新目白通りから少し入った遊歩道だ。新目白通りは整備された道路だが、交通量はさほど多くはない。
「さっきの早稲田通りじゃうるさくて」
「うるさいの、嫌いなの」
「いや、そんなに気にする方ではないけど」
涼子と二人だから落ち着ける道を歩きたかったというのが本音だ。
「私はね、案外雑踏って好きなのよ」
「そうなんですか」
「ほら、前言ったように何もない田舎に育ったでしょう。夜になると虫の声と蛙の声ばかり、あ、夏はね。それがさびしくて」
「涼子さんでもさびしいなんて思うんですか」
「あら、ひどい。でも、そうね、卓也がいたから本当にさびしいと思ったことはないかもね」
「卓也……さん、弟さんですね」
「そう。私と卓也は親戚の家の離れで育ったの。親戚は私たちをひきとるのを快く思ってなかったのね、しぶしぶという感じで。でもそれは助かったの。おじさん、おばさん、いとこたちに常に気をつかわずに済んだから。私と卓也、ある意味自由にその離れで暮らしたのよ。環境はひどかったけどね」
そう言いながら、彼女の表情は懐かしむような晴れやかな表情だ。弟がいて、けっして不幸ではなかったとでも言いたげに。
弟。俺とそんなに変わらない。
『なんか、妬けますね』と思わず口にしそうになって、俺は慌てて言葉を飲み込んだ。
「弟さんは今?」
「行方不明なのよ」
「え?」
「でも大丈夫。身近な場所にいるって、なんかわかるんだ」
「心配じゃないんですか」
「たまにスマホに連絡はくるから」
「ああ、それはよかった」
川の流れの音が下の方に微かに聞こえる。ぽつりぽつりと灯る街灯の光がにじんでいた。
二、三歩先の地面の辺りで緑の宝石が二つ動いた。
「あら、猫」
「猫ですね」
整った顔立ちの白猫だった。まだ若い。驚かさないように知らぬふりをして脇を通り過ぎた。
「猫が好きなんですか」
「動物はみな好きよ。でも、さっき言ったような育ち方だから、飼ったことはないの」
「涼子さんて、どこか猫に似てますね」
「それは誉め言葉?」
「もちろんです」
しなやかでとらえどころがなくて、いざというときは素早くて。
しばらく沈黙が降りた。それでも気まずさはまったく感じない。むしろうれしくて俺は柄にもなくどきどきしていた。
右側の新目白通りに電車の音がした。レールがきしむような音。涼子が見るともなく見ている。
「東京に残った最後の路面電車ですね。都電荒川線。そろそろ終点の早稲田だからブレーキをかけたんでしょう」
「いいわね、路面電車って」
「乗りますか」
「え」
「早稲田駅から折り返しですぐに出ると思いますよ」
「そう、ね」
「こういうのも案外いいですよね。お互い新宿界隈で毎日過ごしていると、息抜きしたくなりませんか」
「息抜き……か」
不思議なことを聞いたかのように涼子は同じ言葉を繰り返した。
「大塚まで乗りましょう。帰りが山手線で楽だ」
「そうね、じゃあ」
俺らしくもなく素朴なデートだった。デートと呼べればの話だが。経費は運賃のみ。でも意外にこういうひと時もいいものだと感じている。もしかしたらここ数日にいろいろなことがありすぎて、自覚はなくても神経が疲れているのかもしれない。
「そうそう、話したいことがあったら言っていいわよ」
涼子が気を利かしてくれたが、もう俺はこうして会えて一緒にいるだけで胸がいっぱいで、何も話さなくてもいいと思っていた。
細い道を抜けて新目白通りに出た。目の前に都電荒川線早稲田駅があり、先ほど通過した車両が停まって折り返しの客を待っている。簡素な造りの屋根から灯りが落ちている。
俺と涼子は道路を渡って駅の中に入った。
「涼子さん、都電乗ったことありますよね」
「まあ、少しは。でも乗ったことはある、という程度」
「案外そんなものなんですね、用がなければ乗りませんもんね」
前から乗車して、都心のバスと同じように先にお金を払う。俺はPASMOを使ったが、彼女は現金だった。
「あれ、IC定期持ってないんですか」
言ってから気づいた。
「そうか、初台からなら……近いですものね。自転車、いやもしかして歩いて?」
彼女はヒールのない靴を履いていた。これまで2回会ったときもそうだった。
「ふふ、そう。ウォーキング代わり」
「健康的ですね」
当たり障りのない会話でも楽しかった。
俺と涼子は横に並んで座ったが、帰宅の客で中はだんだん混んできた。この時間帯なので老人や子どもはいない。大体がサラリーマン風だった。
ごとりと車両が動き、走り出した。チンチン、とベルが鳴らされる。
「さっきの子」
涼子がぽつんと言った。
「いい子ね」
「美佳ちゃんですか」
「ええ、それにとても賢い」
「家庭教師がよかったんですよ」
俺は冗談めかして言ってみたが、涼子は何かにとらわれているような眼をした。