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第24話

 ごおお、という低い音とともに路面電車は自動車道の上に引かれたレールをすすんでいく。

「君」

「え」

「もっと話してしまいたいことがあるんじゃないの?」

 彼女は言った。

「ああ、話せばいろいろ」

「詳しいことは分からないけど、話したいことがあるから電話をくれたんでしょう」

「ええ、まあ」

 本当は声が聞きたかっただけだ。そしてこうして顔を見ることができると他のことなどどうでもよいような気分になる。けれど、それをそのまま彼女に言うわけにもいかない。

 都電はゆっくり走るけど、それでもあっというまに目的地についてしまう。

「雑司が谷、雑司が谷」

「この辺はいいところですよね。来たことはありますか」

「ううん、ないわ」

「こんど散策してみませんか」

 彼女は微笑んだが答えはノーのようだった。

「雑司が谷というと、雑司が谷霊園が有名ね、その雑司が谷のことでしょう」

 話を合わせてくれる。

「そうですね。夏目漱石さんのお墓があるとか」

 聞きかじりの知識を披露する。

「ふうん」

 どうしたんだ、俺は。どうでもいいことばかりしゃべっている。

「弟さん……卓也さんですか、とてもかわいがってるんですね」

 涼子の顔つきが変わった。よい方に。どうやら本当に弟がかわいくて仕方ないらしい。

「だって、たった一人の家族ですもん」

「ご自慢の弟さんなんですか」

「ふふ、私ね、あの離れであの子と生きるなかで、私は姉でもあり母でもあると思ったの。本当の母親を知らないから、母でもあるといってもよくわかってないんだけどね」

 彼女が言うと、明るくて楽しいことを話されている気がしてしまう。

 子どもが好意的でない親戚の家に預けられ、半ばネグレクトされて育てられたというのは決してよい環境ではなかっただろうに。でも今目の前にいる彼女からはそういう影は感じられない。一見すると本当に少女のような風貌だ。

 ……わかった。彼女が少女のように見えるのは、やや童顔だということのためだけではない。生き生きとしているのだ。社会儀礼を身につけて笑顔を見せる女性は多い。でも、それとは明らかに違う内側からの生命力の光。

「子どもの年の差って大きいでしょう。私、必死にあの子を教育して育てあげようとしていたの。そのために私はできるだけ早く大人になる必要があった。それはうれしいことだったの」

「でも、あなたは若く見えます。その、見かけだけでなくて」

「あら、ありがとう。……勉強も教えたし、その他のことも。彼は勉強がよくできたから、私、あの子を大学まで出してあげたいとわりと早くから考えていたのよ」

「涼子さんは」

「高卒よ、もちろん。そんな余裕は時間的にも金銭的にもなかったから。私ががんばって……」

 そこでふと彼女は言葉を止めた。少し考えてから続ける。

「あの子を、大学まで行かせたの」

 今のほんの少しの間が俺はやけに気になった。

 俺は彼女に焦がれているのに、彼女と話しているとじれったくなる。どこまでも平行線のような。彼女の眼は違う世界を見ているような。

 俺のことを見て欲しい、少しは。彼女の親切にもかかわらず、何かが絡んでいない。

 彼女の話は続く。

 弟の卓也さんが志望校にストレートで合格したこと、優秀だったこと、姉として誇らしく思っていること。


 何か俺には違和感があった。

 彼女は――おそらく女性だ。けれど彼女の振る舞いからはそういうプライドは全く感じられない。それでいながら、弟の自慢話はどんどん出てくる。


 都電に揺られながら、だんだん苦しくなってきた。

 今彼女と話したいことはそういうことではない。

 なのに、不甲斐ないことに俺は彼女との距離を縮められるような話題を振ることができない。

 俺って、こんなに間抜けな奴だったっけ?


 正直言って、俺はそこそこ何でもそつなくできる自信はあった。

 けれど、今ここで、何だか一人でもがいているような惨めな思いにとらわれて苦しんでいる。


 俺の気持ちと、都電から見えるのんびりとした民家の並びの光景がちぐはぐだ。


 どうしたらいいのだろう。

 何とか、今日のチャンスを生かしたいと俺は切に願っていた。焦っていた。

 それ自体が、俺らしくない。

 大塚駅まで行く予定だったのに、俺は落ち着かなくなって涼子に言った。

「やっぱり、東池袋4丁目で降りませんか」

 涼子は驚いたように顔を上げた。

「あそこでも、池袋駅までは歩いてすぐですから。かえって早いかもしれません」

「私はどちらでもいいけど……でも、このままただ帰るだけじゃないでしょう? 話したいことがあるんでしょう」

 俺は少し詰まった。

 話したいこと、と言われると実はないのだ、涼子の言うような意味では。

 ただ、涼子の近くにいたい、彼女のはっきりとした耳に心地よい声を聴いていたい、そんな理由を彼女に言えるわけもなかった。

 この数日間のさまざまな非日常と言っていい出来事を話せたら……もし彼女が恋人だったら話すだろう、気兼ねなく。でも、彼女が少しはかかわっているとは言っても、本当のこと、俺の経験した全容を彼女に話すわけにはいかなかった。彼女を巻き込みたくない、何よりもその気持ちが強かった。

 俺は、期せずしていろんな「事件」に首を突っ込みすぎている、その他方で、彼女に対する気持ちがますます膨らんでいく。

 どう折り合いをつけていいのか分からなかった。

 彼女は俺の恋人ではない。

 路面電車はゆっくりとだが、東池袋4丁目に近づいていた。

「ここでおりるのは構わないわよ。何か、君、切羽詰まってるみたい。私でよければ話聞くって」

 まるで当事者意識のない涼子の言い方でますます足がすくんだ。

 でも、駅に入ったところで俺たちは降りた。

 首都高速が上を走っている。何となく俺たちはその下に移動した。

 小さな飲食店がいくつかあった。ムードも何もないが。

「少し飲み物くらい一緒に」

 そういって店の方に歩きだそうとする涼子の手を思わず俺はつかんでいた。

 涼子が目を瞠る。

 自分が何をしているのかよく分からなくなっていた。ずっと焦れていた思いがもう満杯になって噴き出してきてしまったようだ。

「本橋さん」

 我ながら追いつめられたような口調で話しはじめていた。

「僕と、おつきあいしてもらえませんか」

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