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第25話

 涼子は文字通り目を丸くして俺を凝視する。まるで予期もしていなかったかのような顔だ。俺はたまらず目をそらしたくなるが、必死に耐えた。

「あの」

 ずいぶん時間が経ってから涼子がようやく声を発した。

「からかってる……んじゃないのよね?」

 俺は苛立った。彼女の両手をつかむ。彼女の手は小柄な体に比べて比較的大きい。

「僕は、冗談でこんなことは言いません」

「でも、ついこないだ会ったばかりよ」

 理解できない、というふうの涼子の他意のない表情に狂いそうになる。

「会ったときから、あなたに惹かれていたんです」

 ようやく俺の本気が伝わったのか、涼子は目を伏せた。

「まさか、そんな、考えもしてなくて」

 もし他の女性がこんないい方をしたら、作為性を感じざるを得ない。だが、涼子に限ってはその通りなのかもしれないと思う。

 本当に彼女は、俺のことも弟と同じように気にしていただけなのかもしれない。

 まるで思いがけないことを言われたというような涼子の丸い目に俺のプライドは瓦解寸前だ。

「ごめん、私、そういうつもりは本当になくて」

「では、NO?」

「急がないで。NOというか、あなたは」

「じゃあ、なんで俺にかかわってくれたの」

「それは、変な奴らに絡まれてたから、危ないなとおもって」

「それは最初ですよね。次に会ってくれたのは」

「……会ってほしいといわれたから」

 俺は情けなくて泣きたくなる。

「では、もう会ってくれる可能性はないの」

 まるで駄々っ子だ。

「何で、そこまで話がとぶの。会わないなんて言ってない」

「俺は、……この後ただ友達としてつき合いましょうといわれてもそうする自信がないんです。あなたが好きだ」

 意外なことに涼子の丸く見開いた瞳が潤んだ。黒目がちのあの眼が反射する街の光を映して美しい。

「そう……じゃないの。私は」

「どういう、意味ですか」

 本気で涼子は悩んでいるように見える。何を悩んでいるのだろう。NOならNOときっぱり言ってくれた方が俺にはありがたいことだ。一体何を、彼女は迷っているのだろう。

「ごめんなさい」

 涼子が言う。

 俺は唇を噛んだ。

「そういうことなんですね」

「あなたの思ってるような意味ではないわ」

「どういう意味もないですよ。NOってことでしょう」

「……」

 沈黙が訪れた。彼女は片手を頬に強く押し当てて考えこんでいる。

 俺は、もう終わったのだと思った。

 YESが得られると思っていたわけではない。けれど、彼女のどこか頑ななところは予想外でそのことに傷ついていた。

「わかりました」

 俺は言った。

「きっぱりと、もう会いません。あなたをこれ以上困らせることは」

 彼女はまた目を上げて何か言いたそうだったが、俺はこれ以上何の救いも感じられなかったのだ。

「駅まで……送ります」

「いいえ」

「では、ここで別れますか」

「そう、ですね」

 俺は「じゃあ」とできるだけ明るくいって早々に背を向けた。背を向けた途端に、目頭が熱くなった。泣くのはみっともない。必死にこらえて、振りかえらずに歩いた。

 JR池袋駅まで歩いたら、ずっと涼子と同じ道筋になってしまう。俺はでたらめに路地を通って、最終的に都電荒川線に沿うかたちで歩きはじめた。ほんの少し、涼子が追いかけてくれるのではないかと思った自分が女々しかった。心が締めつけられるのを逃れるように、星のない薄ぼんやりとした夜空を見上げながら、暗い道を歩いた。

 かろうじて涙を抑えた。人目がなくても、泣くのはあまりに自分が惨めなような気がした。


 雑司が谷墓地の辺りを抜けた。人家がやや遠くになる一本道に入った。都心にしては灯りも少ない珍しい場所。


 そう、まるで待ち構えていたようだった。


 黒塗りの車が音もなく滑るようにやってきて、俺の少し前にぴたりと停まった。ドアが開き、男が降りて俺の真ん前に立ちふさがる。小柄だが、一目でそれと分かる鍛え抜かれた肉体。

 本能が逃げろと告げている。だが、ここで背中を見せるわけにはいかない。俺は、全身を緊張させながら、じりじりと後ずさった。サバンナで出くわした野生動物どうしのようだ。

 見たところ、こいつは武器を所持してはいない。しかし。

 動き。奴が大きく振りかぶった。

 俺の体が一瞬浮き、次にアスファルトの上に叩きつけられる強い衝撃があった。

 やはり、プロだ。

 俺は武術の心得がある。空手を嗜んだ。だが、まったく反撃できなかった。地面にあっという間に組み伏せられている。そんな自分がまだ信じられない。男は右手と右膝で俺の肩と胴体を押さえつけている。もがこうとも、びくともしない。まさにプロの技だ。そして、左手で俺の喉元を締め上げはじめる。

 息ができない。脳みそが膨張する。視界がかすむ。俺は必死に歯を食いしばるのがやっとだ。

 気がつくと、俺はアスファルトの上に転がされたまま、後ろ手に手錠をかけられたところだった。手錠? 刑事か、いや違う。

 気配を感じて目をやると、もう一人、背の高いスーツの男が俺を見下ろしていた。口元が笑っている。品のある顔立ちだが、明らかにかたぎではない。俺は立ち上がらせられて、小突かれた。歩けということらしい。このまま、車に連れ込まれる。そう思った。何とか逃げなければ。だが、俺を押さえつける男の腕には全く隙というものがないのだ。どうしたらいい? 辺りに目を走らせて、俺は息をのんだ。

 涼子。信じられないことに、涼子が歩道に立って、俺たちを見ている。眼の輝きが尋常ではない。俺は、こんな状況ながらも、一瞬その美しさに打たれた。が、次に声を出さずに叫んだ。

『逃げろ』

 スーツの男が涼子の方に向き直った。

「久しぶりだな、涼子」

「九段……」

 涼子の声はやや掠れてはいたが、はっきりとしていた。

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