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第26話

 くだん? 二人は知り合いだったのか? 俺は混乱する。


「その人は、関係ないでしょう」

 涼子がスーツの男をにらんでいる。抗議のこもった口調だった。

「お前が関わっている限り、関係ないということはありえない」

 お前? そんな気やすく呼ぶような仲なのか。

「心配するな。傷はつけていない」

 無性に腹が立った。傷? 人を桃か何かみたいに。

「乗れ」

 スーツ野郎は俺にではなく、涼子に声をかけた。涼子が近づいてくる。そして、そのまま車の前を回り込んで、助手席に乗り込んだ。俺は軽く驚愕する。

 俺もまた小突かれた。押さえつけられた格好で、後部座席に押し込まれる。

 その直後、後頭部に強い衝撃を受けた。

「怪我させないで」

「大丈夫、こいつにはその辺の心得はある。訓練しているからな。せいぜいたんこぶ程度さ」


 何か、そっと撫でられるような感覚があった。

 けれど、頭はずきずきと痛む。


 疲れもあったのだろう。ずぶずぶとまた眠りに落ちていってしまった。


 俺の心は混乱の極みだった。


 涼子? 俺は振られたのか、それとも。


 あの男、スーツ野郎の不快な笑い。一体何者なんだ。


 「くだん」? 涼子の知り合い。「くだん」?

 俺といるときとはまるで感じが違った涼子の放つ雰囲気。

 あの眼の輝き。


 いったいどういうことだ?

 いや、それより、俺はどうなってしまうんだ?


 どのくらい時間が経っただろう。

 ふいに焦りに駆られて俺は跳び起きようとした。いや、そうしようとして頭を抱えた。


 確かに。たんこぶになっている。


 思いがけない場所にいた。白い壁。窓にも白いカーテン。

 病室だ。


 頭に手をやるとシップのようなものが貼ってある。


 「くだん」とあの猛獣と、そして涼子はどこへ行った? 俺は一人きり、ここに取り残されていたのか。


 猛烈な焦りがこみ上げてきた。起き上がって病室のドアを開けたとき、看護師の女性がちょうど通りかかった。

「あ、まだ歩かないでください。今、先生をお呼びしますから、お部屋に戻って」

 そういって、看護師は小走りにもと来た道、ひんやりとした廊下を引き返していった。俺は少し茫然としたあと、しかたなく病室に戻りまたベッドにもぐりこむ。


 まもなく中年の医師が来て、状況を説明してくれた。

 未明に119番が入り、近くのこの病院に運び込まれたことを知らされた。検査結果はとくに異常なし。様子を見て午後には退院してよいだろうということだった。壁の時計は11時過ぎを指している。

 医師がそれ以上訊かないことに俺は不信感をもった。

「あの、僕はその、どこに? 誰が119番を?」

「ああ」

 気のよさそうな医師は答える。

「記憶が混乱しているんですね。ここは板橋ですよ。あなたは板橋の歩道橋から転落したんです。頭を打った以外はかすり傷程度ですから運がよかったです。通報は目撃した通りすがりの女性が」

「どんな女性でしたか」

 俺の語気に医師は面食らったようだ。

「気になるからと病院まではついてらっしゃいましたよ。OL風の女性でした。怪我のようすを伝えると安心してお帰りになりましたよ」

「歳は?」

「さあ、20代くらいかしら」

 看護師が割って入ってこたえる。

「お知り合いですか。そんなふうにはおっしゃっていなかったですけど」

 涼子に違いないと思った。

「いえ、お礼を、と思いまして。その、お名前や連絡先は」

「ごめんなさい、それは訊けていなくて。……いつのまにかいなくなってしまったの」

『いつの間にかいなくなってしまった』

 何気ない看護師の言葉に俺は戦慄した。そう、彼女にはどこかそういうところがある。彼女は、本橋涼子は何者なのか? なぜ、あの「くだん」とかいうカタギではない男と知り合いなのか。そして、考えたくはないが、2人の関係は……。


 何ごともなく午後になり、俺は退院した。

 別の意味で頭が痛い。体の疲れが一気に出たようだが、心は乱れて意味もなく駆り立てられてしまう。

 会社に行く必要が当面ないことがかえってよかったと思えてきた。


 駅の方へと見当をつけて歩きながら、俺は再びスマホを出す。実は看護師の目を盗んでは何度も涼子に電話をかけている。けれど、鳴りっぱなしで留守番電話にさえならない。LINEももちろん送っているが、既読にさえなっていない。

 涼子は、少なくとも1回はあの男とは離れたはずだ。俺について病院まで来てくれたのだから。でも、そのあとは? 再びあの男のところに行った可能性だってありうる。

 なぜ、涼子の勤め先を聞いていなかったのだろう。悔やまれてしかたがない。

 俺は、一か八か、初台に行ってみることにした。

 けれど、彼女は電車を使っていない。どうすればいいんだ。


 訳の分からなさと手がかりのなさに俺は気がおかしくなりそうだった。

 初台の駅の周辺や大きな道路、以前涼子とタクシーを降りた場所。

 俺はただただ闇雲に歩き回り、何も見つけられずに疲労困憊して夜遅く帰宅した。以前は中井までの道を山手通りをずっと歩いて帰ったが、とてもそんな元気はなく、新宿経由で電車を乗り継ぐのも億劫で、タクシーを使った。


 歩きながらいくら考えても頭は混乱するばかりで、無力感に打ちひしがれた。涼子は俺の送ったメッセージを読んでさえくれない。電話の通話ボタンを押すのさえ徒労感にとらわれるようになってしまった。


 涼子。頼むから出てきてくれ。説明してくれ。

 こんなに訳がわからないことには耐えられない。


 その夜は一晩中うなされて眠った。体が疲れ切っていたが、眠りは浅く、いやな夢の連続だった。


 朝方、ようやく明るくなった窓の方を見て少し茫然としていると、電話が鳴った。がばりと跳ね起きて画面表示を見ると、飯田だった。

「神楽、今いいか?」


 急に現実に引き戻された。

「あんまりいい知らせじゃないんだけどな。耳に入れとこうと思って。また新宿署の刑事が来たんだよ、夕方ごろ」

 うんざりしてきた。

「馬場ってやつか?」

「悪い、名前まではわからないんだが」

 俺が馬場の特徴を伝えると、ほぼ間違いなさそうだった。

「それで?」

「上が対応したけど、またお前、出てこられなくなるかも」

「わかった。それは腹括ってるから。ありがとな」

 正直俺は会社のことは忘れていた。

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