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第29話

「あんたが彼女に出会って5年ということか?」

 気になってついむきになってしまった。九段は相変わらず窓の外を見ている。もったいつけられているようで腹が立つ。

 なかなか答えないのでいったん下ろしたコーヒーを再び口元に運んだ。

 深いコク、さすがの味だが苦い。しかし九段の前で砂糖やミルクを入れるわけにはいかない。俺は一気に飲み干してしまった。あまり食べていなかった胃にずんとくる。

「涼子にはある秘密があるんだ」

 視線を外したまま九段は言う。俺はおや、と思った。これまであった皮肉気な笑みが影を潜めている。

「どういう意味だ。かっこつけてないで言ってみろよ」

「知らない方がいい。彼女に憧れる気持ちだけ大事にして忘れろ」

「彼女があんたの女なんて話は信じない。俺は俺のやり方で、彼女という人を本当に知りたいんだ」

 俺のなかに一片の疑いもなかったといったら嘘になる。この九段という男と涼子の関係はただの顔見知りといった領域を超えていた。

 もしかつて、二人が恋人同士だったとしたら。

 自分の妄想に自分で首を振った。だから何なんだ。俺が見ているのは今の彼女だ。彼女は明らかにこの九段という男を拒否している。

 彼女にどんな秘密や過去があろうとも、俺は俺の眼で見たものだけを信じるんだ。

 九段は自分のコーヒーを口に含み、しばらく沈黙した。

 やがて言った。

「忠告はしたぞ。それでもあきらめきれないのなら、ひとつヒントをやろう」

 傍らの猛獣は何も口にせず、無表情のままだ。

「杉田。おまえは先に車に戻っていてくれ」

 杉田とよばれた猛獣が頭を下げてパーテーションの向こうに消えると、九段はため息を一つついて俺に言った。

「彼女が君の前に現れたのには理由がある。それを突き止めてみろ」

「偶然じゃなかったということだな」

「そうだ。だから私も君には目をつけてずっと追っていた。君のことは君以上に知り尽くしている」

 ヤクザにそんな言われ方をしていい気持ちはしないが、余計なことを言うつもりはなかった。

 俺は少し考えた。やはり、偶然ではなかった。あの歌舞伎町で初めて出会ったときから、彼女は俺を意識していたのだ。では、次は? 「会ってくれって言われたから」……彼女の言っていた理由はそれだけだった。確かに俺は彼女にお礼をしたいとか、今だから言うが完全な口実をつくって彼女に会ってもらった。それきりにはしたくなかった。どうしても、また会いたかった。必死だった。

 同時に、その過程で俺に降りかかったさまざまな非日常の数々。馬場の言葉ではないが、なぜかいつも俺は現場に居あわせることになった。それで、美佳とも知り合いになり、彼女のためにも積極的にあの事件にかかわっていこうと考えるようになっていた。

 俺はずっと、涼子にその話はしていない。巻き込みたくはなかったから。

 でも、彼女が意識的に俺にかかわってきたのなら、そんな偶然などあるわけがない。

 

 でもそれは、まったく予測がつかなかった。

 九段は黙った俺を見て、もう興味を失ったかのように言った。

「下の駐車場に杉田が待っている。送ってもらいたまえ。今日は呼び出して申し訳なかった。昨夜のお詫びがしたくてね」

「夕べは本橋さんに用があったんだろ。それは何だ」

「そんなことは君は知らない方がいい」

 絶対に言うわけはないと俺も思った。

 一つだけ、気になっていたことを尋ねた。

「あの、杉田って奴、それに昨夜の猛獣。あれは、?」

 九段は視線を向けて再び皮肉な笑みをもらした。

「精鋭たちさ、フランス外人部隊帰りのね」

 俺は息を飲んだ。

 そういうことか。プロとしか思えないあの動き、隙もなく無駄もなかった。あいつらは、戦場に行ってきた連中だ。本物の戦闘を経験しているのかもしれない。

 同時に馬場の顔が思い出された。何の脈絡もなく俺にフランス外人部隊の話題を振ってきたことがある。真意はいまだに不明だ。これは偶然なのか。

 このことを九段に問いただそうかとも思ったが、思いとどまった。まだまだ分からないことが多すぎる。

 それから、いささか唐突ではあるが、これは訊いておくべきだと思ったのでストレートに尋ねた。

「あんたの連絡先を聞きたい」

 九段は面白そうに俺を見て、名刺入れを取りだし、1枚を俺に差し出した。

「BY株式会社 代表取締役社長 九段重彦」

 フロント企業の社長ってことか。会社の代表電話と九段の携帯番号が印字されていた。俺はそれをカードケースに突っ込み、テーブルを離れた。一瞬だけ振り返ると、九段はまた窓の外を見ていた。

 エレベーターで地下に降りると、杉田が車の横に背筋を伸ばして立っていた。俺を待っていたらしい。

 無言で後部ドアを開けるので俺は乗りこんだ。

 こんな奴と2人きりというのはさすがに落ち着かないが、やむを得ない。九段のようすから、いきなり殺されるようなこともないだろう。

 杉田が乗りこみ、車は静かに走り出した。

「おい、九段はどうするんだ」

「別の者がお迎えに上がります」

「BYってのは何の会社なんだ」

「商社ですよ」

「あんたも社員なのか」

「ええ、専属の運転手です」

 ボディーガード兼、なんだろう。

「どこにお連れしますか」

「もとのところでいい。新宿だ」

 俺は馬場に探りを入れようと考えていた。

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