九段の顔が思いうかぶ。
夜闇のなかの嫌味な笑い。表参道のホテルでの逆光になった端正な顔。
一見優男風の、ドラマか映画にでも出てきそうないい男だった。
それから涼子のことを思い、胸が締めつけられるようだ。何度も何度も振り切ろうとしているが、やはり俺は2人の関係に神経が焼かれている。
「何を考えています?」
しまった。馬場の前で迂闊に物思いに落ちてしまっていた。
「いえ、馬場さんはタヌキだな、と」
馬場はにやりとする。
やはりさっき俺が柄にも似ず鎌をかけたことがバレているような気がして自己嫌悪になる。
「まあ、私は職業柄奇妙な趣味がありまして。一種のキワモノ好きと言いますか」
「キワモノ?」
急に何をいいだすのか。
「もう一つ、関心があるのが陸軍中野学校のことでして」
俺ははっとする。
「ご存じですか? 今の中野駅の北口の方に、戦時中のスパイ養成機関があったんですよ」
「……何かで聞いたことはありますが、それが何か?」
「私、実は中野に住んでまして。官舎ですけどね」
「はあ」
「今の中野の警察病院の辺り、近いんですよ」
「でももう跡は残ってないんでしょう?」
「それでも楽しいじゃありませんか。東洋一のスパイ養成所があった場所に住んでいるというのは」
「あまりよくわからないですが」
「ですから、キワモノ趣味と申し上げたんですよ」
いい歳をして、何か現実離れしたようすがこのときの馬場刑事にはあった。それがのちのちまで俺の心に引っかかった。
新宿署を出ると、俺はとりあえず西武新宿駅に直行し待ちかまえていたような各停列車に乗った。
そして次の駅の高田馬場で降りた。
そのまま美佳の家の前を気にかけながらも素通りし、神田川沿いの遊歩道にでた。少し歩いて、川に沿って設置されている柵に寄りかかって、ポケットからICリーダーを取りだした。
九段に会う前に、小田急ハルクで購入しておいたものだ。何かの役に立つだろうと買っておいたのだ。
別段今日、何か面白いことが訊き出せたわけではなかったが、俺はイヤホンをつけてちゃんと録音されているかを確認した。
問題はない。川沿いの家の向こうに新目白通りが見える。車の行きかう様子を見るともなく見ながら、しばらく録音を聞き、止めた。
それから、スマホを取りだして電話をかける。もう彼女の番号をタップする前から、俺は唇をかみしめていた。
鳴りっぱなし。
着信拒否の場合はどういうふうになるんだっけ?
まだ、鳴るということは、着信拒否はされていないのだろうか。
これからどうするか。
新宿署を出るときに決めていた。ここから下落合の新宿中央図書館に行く。
一駅分歩くのは、周囲に不審な人物がいないか確認するためだ。
図書館に着いたら、スマホと蔵書で、フランス外人部隊と陸軍中野学校について調べようと思っていた。
この日の残りの時間を俺はずっと図書館で過ごした。
閉館時間に追われるように外にでる。
ここから自宅までは歩いてもすぐだ。頭を冷やすために歩こうと思った。とりあえず、九段の昼の様子からすれば、訳もなく何かされるということもなさそうだし。
スマホを見てため息をつく。涼子はもう二度と出てくれないのか。もう二度と俺に会うつもりはないのか。
そんなことは耐えられない。
俺は、自分の見た涼子を信じる。それだけだ。
陸軍中野学校とフランス外人部隊についてはいろいろ調べて少しは詳しくなったが、それが今回の事件と結びついているのかどうなのかについては何とも言えない。
振り向くと、ライトアップされたスカイツリーが驚くほど近くに見える。
タワーというのは不思議なものだ。
モノも言わず、じっと地上を監視しているかのように見える。
俺はもう一度ため息をついてスカイツリーに背を向けた。
新目白通りを挟んだ向こうは高田社長の家がある下落合の高台住宅地だ。今は誰もあの家にはいないだろう。
美佳は今日はどうしているだろうか。
女子中学生に電話をするには時間が遅かったが、メールは送っておこうと思った。昨日、彼女は俺を信頼していろいろ話してくれたんだ。
それに応えてあげなければ。
美佳と話していた涼子の微笑んだ顔が思い浮かぶ。美佳を思いやって上手に話をリードしていた。ああいう面も俺にはとてもまぶしく見えた。考えているとまた胸が苦しくなってくる。
俺は美佳にLINEを送った。
徒歩で中井駅の方に歩きながら、スマホを手にしていた。
少し遅い時間とはいえ、美佳はすぐ返信するだろうと思ったからだ。
けれど、ときどき気にかけてホーム画面を確かめるが、返信のきたようすはない。
疲れて寝ているのだろうか。
スマホをかばんのポケットに入れた。
中井について妙正寺川を見る。とはいってもコンクリートの底を流れる川。神田川と同じ。神田川。涼子と神田川沿いを歩いたのはほんの1日前だ。
もう一度かばんからスマホを出して画面を開く。
どうせ嫌われるならそれでもいい。俺は涼子のナンバーを呼び出す。
『おかけになった番号は……』
辛抱強く待つ。
『……かかりません』
もう少し、もう少しだけ待つ。
唇を噛んで終了ボタンを押そうとした瞬間、気配がした。
電話からではない。
視界の向こうに。
あの小柄だけどぴんとした立ち姿は。
信じられない思いだった。