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第33話

 俺は、聞きたかった。涼子と九段の関係について。昨夜、あれからどうなったのかについて。

 でも、喉の奥に何かつかえて声にならない。

 斜め前方を凝視する涼子、言葉を発することを躊躇する俺。

 川面が遊歩道の電灯の光を反射してゆらゆらと揺らめいて見える。

 意を決したように涼子が顔を上げた。

「ごめんね、ここにいれば神楽くん、来るかなと思って待ってた」

 それを聞いて安堵感がこみ上げる。電話にも出てもらえなかったことが不安でたまらなかったのだ。

「何回も電話したんです」

「そう?」

「さっきも、かけてました」

「あ」

 涼子は気づいたように、

「神楽くん、電話しているみたいだから、待ってたの。おかしいね」

 薄く涼子は笑う。

「サイレントモードにしちゃってたから」

 涼子はスマホをチェックしないのだろうか? ふと頭をかすめたが、そんなことより今ここにいてくれることがうれしい。

「俺、今日あの男に会いました」

「え」

 涼子が目を上げた。

「九段重彦です」

 言うと、涼子はひそかに眉の根を寄せた。


「りょ……、本橋さん」

 声が思わず裏返ってしまった。うっかり、心の中で呼び続けている名前、涼子と呼びそうになって訂正する。

 涼子はまっすぐにこちらに歩いてくる。俺は小走りになった。

「本橋さん、夕べは……」

 涼子は不思議な色をたたえた目で、俺を見た。

「神楽さん」

 少し戸惑うような声を出した。

 昨夜の告白がよみがえって頬が熱くなる。

「少し、歩きましょう」

 彼女が妙正寺川沿いの石敷きの遊歩道に促すので、俺はしたがった。

 ああ、昨夜は神田川沿いをこうやって歩いたのだ。

「まだ痛む?」

 涼子が尋ねる。

「ああ」

 心配してくれていたのがうれしくて、頭を掻く。

「全然ですよ。昨夜は、ありがとう」

「いえ、私のせいだから。ごめんね」

 涼子は唇を噛んでいる。何かを考えあぐねているような気配がした。

 涼子の表情は何を物語っているのだろう。

 少し間をおいて、涼子からは何も言葉がでないのを確認し、続けた。

「あの男は、あなたの何なんですか?」

 涼子は一瞬頬をぴくりと動かした。俺は祈るような気持ちで注意深く見る。

 彼女の目に思案するような色が浮かび、やがて視線を上げて俺を見た。

「もう、あなたには近づかせない」

 少し混乱した。この言葉は何を意味しているのだろう。彼女が、あいつを俺に近づかせない……。鈍い痛みが走った。涼子と九段、2人は川の向う岸におり、俺はこちら側にいるのだ、と。自分の立ち位置を暗に突きつけられたようだった。

 涼子は俺の痛みに気づいたのかどうなのか、その黒い瞳はきらきらと輝いている。「りょ……」と口走ってしまったが、声が掠れていた。右腕が勝手に動き涼子に触れる。瞬間、その腕を摑んでいた。

「涼子さん、僕は」

「神楽くんは関係のない人」

 涼子の口走った言葉は何を意味している?

「か……んけい?」

 間抜けな問いしか出てこない自分を呪った。

「私が悪いの。ごめんなさい」

「どういう……意味ですか? 僕は昨夜」

「さよならを言いたくて、今日は来たの」

 周囲からまったく色が消えた。

 気がつくと涼子が背中を見せて2、3歩道路の方に歩きはじめている。

 俺は慌てて彼女の前にまわり、肩をつかんでいた。

「待ってください、涼子さん」

 涼子は驚いた素振りも見せず、俺の目を見返す。そのつややかさに意識を持っていかれそうになりながら、必死に絞りだした。

「あなたは、何も答えていない。それはずるいです。お願いです、答えてください。昨夜、僕はあなたに言いました。好きです、と。つき合ってください、と。その答えをはっきりと聞かせてください。でないと僕は、死んでも死に切れません」

「死なせはしない」

 え?

 涼子は決意のこもった目でじっと俺を見る。

「あなたのことは、絶対に私が守る」

 俺は理解できずにあっけにとられた。

「涼子さん?」

 涼子の目がきらきらと輝いている。あの、昨夜見た、九段を見たときの瞳のようだ。

 それから、目の色が和らいだ。

 やがて涼子は言う。

「ごめんなさい、神楽くん。私は、……だめなの」

 それは、九段がいるからなのか? 他に好きな男、付き合っている男がいるということなのか? それとも。

「お願い。それ以上は訊かないで」

 懇願のような響きが加わる。この人が、こんな声を出すなんて。

 俺は彼女の肩をつかんだ力を緩めた。涼子はそっと俺の手を外す。

 そして、ひとつ頷いて、また歩き出した。

 俺は、地下鉄の駅に吸い込まれていく彼女を黙って見送った。 

 スマホの着信音ではっとした。

 ずっと、ベッドに横になりながら、夢とも現ともつかない場所で苦さを嚙みしめていた。

 飯田からだった。

「はい」

 体を起こしながら通話ボタンをタップする。

「神楽、寝てたか?」

「ああ、うん。大丈夫」

「どうしてんのかな、と思ってさ」

「ああ、悪いな」

 自分の口から苦笑のような妙な笑みが漏れるのを感じた。

「会社は?」

「ああ、あまり変わりはないよ。腹立たしいな。お前は何も悪くないのに、さ」

「ああ、まったくだ」

「それで、さ」

 飯田は言いにくそうに切りだす。

「今度木場さんと会う件なんだけど」

「うん、忘れてないよ」

「大丈夫か?」

「もちろん。俺は今やることがないからな」

 実際には、あの謎を解明したくてとにかく何かはしたいと思っている。けれど、飯田の頼みを蹴るつもりはなかった。

「彼女と会う店を教えるから、まっすぐ来てくれるかな」

「いいよ。品川のほうだよな」

 飯田は店の名前をいい、詳細はLINEで送ると告げた。時間は19時、飯田が遅れるときは連絡をくれるそうだ。

 とりあえず、何かの予定が入ることが俺には喜ばしく思えた。

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