俺は、聞きたかった。涼子と九段の関係について。昨夜、あれからどうなったのかについて。
でも、喉の奥に何かつかえて声にならない。
斜め前方を凝視する涼子、言葉を発することを躊躇する俺。
川面が遊歩道の電灯の光を反射してゆらゆらと揺らめいて見える。
意を決したように涼子が顔を上げた。
「ごめんね、ここにいれば神楽くん、来るかなと思って待ってた」
それを聞いて安堵感がこみ上げる。電話にも出てもらえなかったことが不安でたまらなかったのだ。
「何回も電話したんです」
「そう?」
「さっきも、かけてました」
「あ」
涼子は気づいたように、
「神楽くん、電話しているみたいだから、待ってたの。おかしいね」
薄く涼子は笑う。
「サイレントモードにしちゃってたから」
涼子はスマホをチェックしないのだろうか? ふと頭をかすめたが、そんなことより今ここにいてくれることがうれしい。
「俺、今日あの男に会いました」
「え」
涼子が目を上げた。
「九段重彦です」
言うと、涼子はひそかに眉の根を寄せた。
「りょ……、本橋さん」
声が思わず裏返ってしまった。うっかり、心の中で呼び続けている名前、涼子と呼びそうになって訂正する。
涼子はまっすぐにこちらに歩いてくる。俺は小走りになった。
「本橋さん、夕べは……」
涼子は不思議な色をたたえた目で、俺を見た。
「神楽さん」
少し戸惑うような声を出した。
昨夜の告白がよみがえって頬が熱くなる。
「少し、歩きましょう」
彼女が妙正寺川沿いの石敷きの遊歩道に促すので、俺はしたがった。
ああ、昨夜は神田川沿いをこうやって歩いたのだ。
「まだ痛む?」
涼子が尋ねる。
「ああ」
心配してくれていたのがうれしくて、頭を掻く。
「全然ですよ。昨夜は、ありがとう」
「いえ、私のせいだから。ごめんね」
涼子は唇を噛んでいる。何かを考えあぐねているような気配がした。
涼子の表情は何を物語っているのだろう。
少し間をおいて、涼子からは何も言葉がでないのを確認し、続けた。
「あの男は、あなたの何なんですか?」
涼子は一瞬頬をぴくりと動かした。俺は祈るような気持ちで注意深く見る。
彼女の目に思案するような色が浮かび、やがて視線を上げて俺を見た。
「もう、あなたには近づかせない」
少し混乱した。この言葉は何を意味しているのだろう。彼女が、あいつを俺に近づかせない……。鈍い痛みが走った。涼子と九段、2人は川の向う岸におり、俺はこちら側にいるのだ、と。自分の立ち位置を暗に突きつけられたようだった。
涼子は俺の痛みに気づいたのかどうなのか、その黒い瞳はきらきらと輝いている。「りょ……」と口走ってしまったが、声が掠れていた。右腕が勝手に動き涼子に触れる。瞬間、その腕を摑んでいた。
「涼子さん、僕は」
「神楽くんは関係のない人」
涼子の口走った言葉は何を意味している?
「か……んけい?」
間抜けな問いしか出てこない自分を呪った。
「私が悪いの。ごめんなさい」
「どういう……意味ですか? 僕は昨夜」
「さよならを言いたくて、今日は来たの」
周囲からまったく色が消えた。
気がつくと涼子が背中を見せて2、3歩道路の方に歩きはじめている。
俺は慌てて彼女の前にまわり、肩をつかんでいた。
「待ってください、涼子さん」
涼子は驚いた素振りも見せず、俺の目を見返す。そのつややかさに意識を持っていかれそうになりながら、必死に絞りだした。
「あなたは、何も答えていない。それはずるいです。お願いです、答えてください。昨夜、僕はあなたに言いました。好きです、と。つき合ってください、と。その答えをはっきりと聞かせてください。でないと僕は、死んでも死に切れません」
「死なせはしない」
え?
涼子は決意のこもった目でじっと俺を見る。
「あなたのことは、絶対に私が守る」
俺は理解できずにあっけにとられた。
「涼子さん?」
涼子の目がきらきらと輝いている。あの、昨夜見た、九段を見たときの瞳のようだ。
それから、目の色が和らいだ。
やがて涼子は言う。
「ごめんなさい、神楽くん。私は、……だめなの」
それは、九段がいるからなのか? 他に好きな男、付き合っている男がいるということなのか? それとも。
「お願い。それ以上は訊かないで」
懇願のような響きが加わる。この人が、こんな声を出すなんて。
俺は彼女の肩をつかんだ力を緩めた。涼子はそっと俺の手を外す。
そして、ひとつ頷いて、また歩き出した。
俺は、地下鉄の駅に吸い込まれていく彼女を黙って見送った。
スマホの着信音ではっとした。
ずっと、ベッドに横になりながら、夢とも現ともつかない場所で苦さを嚙みしめていた。
飯田からだった。
「はい」
体を起こしながら通話ボタンをタップする。
「神楽、寝てたか?」
「ああ、うん。大丈夫」
「どうしてんのかな、と思ってさ」
「ああ、悪いな」
自分の口から苦笑のような妙な笑みが漏れるのを感じた。
「会社は?」
「ああ、あまり変わりはないよ。腹立たしいな。お前は何も悪くないのに、さ」
「ああ、まったくだ」
「それで、さ」
飯田は言いにくそうに切りだす。
「今度木場さんと会う件なんだけど」
「うん、忘れてないよ」
「大丈夫か?」
「もちろん。俺は今やることがないからな」
実際には、あの謎を解明したくてとにかく何かはしたいと思っている。けれど、飯田の頼みを蹴るつもりはなかった。
「彼女と会う店を教えるから、まっすぐ来てくれるかな」
「いいよ。品川のほうだよな」
飯田は店の名前をいい、詳細はLINEで送ると告げた。時間は19時、飯田が遅れるときは連絡をくれるそうだ。
とりあえず、何かの予定が入ることが俺には喜ばしく思えた。