はっきりいって、俺は日本史を知らなさすぎた。
陸軍中野学校の恐るべき歴史。
「陸軍登戸研究所」と対をなす謀略や遊撃戦を遂行するための諜報機関。
当時の超エリートの若者たちが集い、巣立ち、そしてあるものは密林の土と消えていき、あるものは戸籍さえない戦後を送った。
「謀略」「殺人」を叩きこむそれは当時も極秘であり、資料類も敗戦時に焼却処分されたため、その全貌はいまだに明らかになっていない。
彼等は「忠君愛国」「アジア解放」の国体思想と大東亜共栄の思想を叩きこまれ、かつ自らのものとして生きた。
同時に彼等の絆は強く「運命共同体」の意識も強かったという。一般的な日本軍のイメージとは違う、ある種の「自由さ」「闊達さ」もその特徴の一つだった。
まったく想像もしていなかった世界に、俺はあの事件の真相の一端でもつかみたいという思いを別にしても、引きずり込まれてしまった。
たとえば「開錠術」は確かな腕で、文字通り針金1本でどんな錠でも開けることができたという。
中野学校がスパイ養成所なら、登戸研究所はそのスパイが用いる道具を開発していた。
偽装したカメラや銃。偽札づくり。
なかには忍者の末裔を招聘しての忍術の伝授や、刑務所のスリを呼んでのスリ術の講義などという呆れるような授業もあったらしいが、そこだけに目を奪われてはならない。
中野学校出身者の使命は生き抜くということ。
多くの日本軍兵士が「天皇のために死ね」と教えられていたのとは対称的だ。
中野出身者の場合は、背負った任務を遂行するためにあくまでも生き抜くことが課せられた。それは彼等の「崇高なる任務」と自己犠牲の意識によってより高められたことだろう。
ふと、気配がした。
あのビルに動きがある。左側に設えられたドアが開いて、男が出てきた。そっと覗う。予想に反して、かなり若い男だ。歩き方が、普通の人間と異なる。こちらに来る。俺は背中を向けてただの歩行者の振りをする。様子を伺っていた角から離れて背中を向けて歩きはじめる。
ただの宅地だ。歩行者がいても不思議ではない。ごく自然に。次の角まで来てさらに曲がろうとしながら視線を元来た方に走らせた。あの若い男が歩いて来ている。しかし、俺を意識しているようには見えなかった。たまたまだ。たまたま俺の身を隠そうとした方向に歩いてきただけだ。
安堵の息をもらそうとしたとき、声をかけられた。
「遠くで見ていないで、中に入りませんか? ご説明しますよ。『アマテラス情報交換会』について」
心臓を鷲掴みにされたような気がした。
男は長身で引き締まっており、しっかりとした筋肉質。武道を嗜んでいたのが分かる。俺は息を飲んだ。
しかし、もう、バレている。ごまかして逃亡するなら、この住宅地のなか、できないこともないが、そうやって機会を逃していいのか?
俺は、この事件に徹底的にかかわろうと決めたのだ。
そして同時に、何か心の空隙を埋めるような欲求がうずいたのも確かだ。
俺は頷いた。
男は先に立って歩く。一見ラフな綿のシャツとチノパン。髪は長め。注意して見なければ、誰も気がつかない。
けれど、張り詰めている。あの九段ににおいが似ているといってもよい。
「どうぞ。むさくるしいところですけど。お茶くらいお出ししますから」
男の当たりは柔らかい。ドアの前で振りかえりにこやかに微笑む。
俺は緊張したままだ。恥ずかしいが、生きてこの建物から出られるのかという考えが頭をよぎる。
男の後について建物に入ると、階段のほうに案内された。壁紙は張り替えられたばかりのように白く眩しい。板張りの段もきれいに磨き上げられている。
男について階段を上がると、2階の扉を男は開いた。カードキーだ。
部屋の中は、1フロアで案外ひろびろしていた。ガラス越しのさんさんとした光で一瞬視界が揺らぐ。大きなテーブルにソファ。応接間のようだ。床にはアースカラーの絨毯。壁には大きな本棚、中身も詰まっている。そして大きくてクラシカルな地図が額に入れて飾ってあった。外観からは想像できない部屋だった。
部屋に入ったもののどうしたものか迷っていると、男が手前のソファをうながした。俺は素直に腰かけた。
「少しお待ちください」
男は部屋を出ていく。
書棚の本を見て驚いた。ほとんどが洋書だ。英語だけではない。アルファベットのものはドイツ語とフランス語、ロシア語は区別がついたが読めはしない。漢字のものもあるし、ハングルのものもある。
目を凝らして何とか意味がとれるものはないかと見つめているところに、男が再び入ってきた。しゃれた浮彫のある木製の盆を持っている。ポットとティーカップが乗っていた。
「この陽気ですから、冷えたものがご所望かとも思いましたが、ぜひご賞味いただきたいお茶がありましてね。珍しい中国のお茶です」
目の前に小ぶりのティーカップが置かれる。
男は俺のはす向かいに腰かけた。
「サングラス、外されたらどうですか。屋内ですから」
男がさもおかしそうに言った。俺は慌てて耳の辺りに手をやる。かけているのを忘れていた。
サングラスを外した。ティーカップは柔らかな湯気を立てている。
「どうぞ。熱い方がおいしいですから」
俺は口に含んだ。ふわりとした香気、初めての味だ。
小皿に菓子が添えてある。クッキーのようだが、これも中国のものだろうか。
「さて」
男も自分の茶に口をつけてから、こちらを見た。
「今日はどんなご用事ですか。わが『アマテラス』にご興味がおありのようですが」
何といったものか、俺の行為はどう見ても不自然で、うまい言い訳が思いつかない。
「実は、私の友人が、異業種交流会に関心がありまして」
苦し紛れに俺は口を開いた。
「こちらにも関心を寄せていて、ちょうど私は近所なものですから、どういうところなのか見ておこうと思ったのです」
男は微笑む。
「それは光栄です。お目にかけていただけるとは」
おそらく、俺の言ったことを信じていない。
「ところで、あなたは少し警戒心を持つべきでしたね」
え?
「そのお茶、ふつうのお茶だと思ってましたか?」
とっさに俺は口元に手をやった。どうする? 指を突っ込んで早く吐き出さなくては……。