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第37話

 明らかに、あの陸軍中野学校と何らかのつながりがあると思うが、今それを言うのはやめた方がいいと判断した。思っていた以上に得体のしれない奴だ。

「あそこの書棚の本は全部外国の本ですね。随分といかめしくて、とてもビジネス書の類とは思えないんですがね」

 俺は書棚を指さした。

「ああ、あれは、この会の創設関係者の方の蔵書です。記念に飾ってあるだけです。古い書ですから、現在取りだしてページを開くことはほとんどありませんが、何か気になるものでもありましたか」

「へえ、創設関係者? 創設者ではないの」

「そうですね。すでにそのとき故人でしたから」

「確かに、古そうな本ばかりだ」

 もう一度ガラス越しに本の背を順に眺めていく。こんなことなら、語学もまじめにやっておけばよかった。ただ、英語の本くらいなら何とか読めるだろう。借りて行こうか。またここにくる理由になる。

『Information Warfare Technology』。

 このくらいなら何とかなりそうだ。

「これ、お借りしてもいいですか」

 俺は振り返るとできるだけ軽い口調で訊いた。竹橋はにっこりと微笑む。

「どうぞ。読んでくだされば、本も喜びます」

 そういって竹橋はガラス戸を開き、その一冊を取りだした。くすんだブルーの表紙。古めかしいが状態はよい。表紙絵などはなく、何かの文様が入っている。

「お待ちください」

 竹橋はそういうと、対面の側にある小さな物入から封筒を取りだし、差し出した。

「いちおう、取り扱いには注意してくださいね。あなたなら大丈夫だとは思いますが」

 封までされたその包みを受けとった。あたりに古い紙の匂いが立ち込めている。

「さて、せっかくお越しいただいたのに申し訳ないのですが、私はこれから用事がありましてね」

 竹橋が掛け時計をちらりと見やって告げた。

「それは、お忙しいところを失礼しました」

「またぜひいらしてください。その本の感想もぜひお聞かせねがえれば」

「わかりました」

 俺は礼を言って建物を出た。

 様子を探るくらいなら十分だろうと思った。


 ふらふらと辺りを見ながら帰る振りをして、俺は時々後ろを振り返った。狭い住宅地の道。ついてくる人影もなさそうだ。

 それでも俺は、来る途中で見かけたボルダリング場に足を踏み入れた。幸い、ラフな動きやすい格好をしている。ちょうどいい。ひと汗かいて、時間差をつけて帰ろうか。

 店員に声をかける。

「初めてここに来たんだけど」

「では、会員登録をいたしますので、こちらにお名前や住所、連絡先をお書き下さい」

 とボールペンを渡される。開放的な広いガラス窓の外には人影はない。

「ボルダリングをされるのは初めてですか」

「うん、まあ、そうだね」

「服装はそれでよろしいですか。レンタルもできますが」

「いや、試しにやってみるだけだから、これでいいよ」

「ただし靴は替えてください。安全上の理由です」

 小銭を出して靴を借りた。

 赤や黄色や緑やピンク、青、黒、紫、オレンジ。

 ボルダリングというのは、もとは登山の岩登りから来たスポーツなんだろうな、と思いつつ、体を動かすのが好きな俺はつい楽しくなり始めていた。

「適当にできてるように見えるかもしれませんが、ちゃんとコースがあるんですよ。初心者用はこの奥のコースです」

 店の入口は狭いが、中は細長く奥まであって案外広かった。

 靴を履き替えてさっそく背より少し高い場所の石をつかむ。すぐに反対の腕でそれより上の石に。

 途中までは楽だった。しかし、だんだん壁が手前に反り返ってくる。

 驚いた。それなりに筋力には自信があったが、体の中の使う筋肉が全然違う。そして手先の力。だんだん腹が痛くなってくる。

 それでも、初めての経験に夢中で、気がつくと時間ギリギリまでやっていた。久々に心地よい疲労感。汗を拭いて、俺は店を後にした。


 途中でさらに家と家の間の狭い路地に入り、美佳にLINEを送った。こんなに反応がないのはやはり不安になる。叔母の家にいるから大丈夫だろうが、やはり、父親と母親のことが相次ぎ、自分も怖い思いをした中学生の少女だ。精神が不安定になっているのではないかというのがいちばん心配だった。

『心配してる。電話してもいい?』

 また歩き出しながら待ったが、返信は来ない。一体どうしてしまったのだろう。いっそこのまま高田馬場まで行って、思い切って家を訪れてみた方がよいのではないか。

 何事もないのなら、それに越したことはないのだし。

 さっき竹橋から聞いた、高田社長と「アマテラス情報交換会」との意外な関係も気になる。もちろん美佳自身はそんなことはまったく知らないことだろうが、高田社長や美沙子夫人が狙われたことの背景は依然として不明であり、また奥が深そうだ。

 けっきょくLINEの返信はないが、もう一度電話をしてみた。

 呼び出し音は鳴りつづける。どうして彼女は出ないのか。

 諦めていったん切ろうとしたとき、電話に出る気配がした。俺は弾かれたようになる。

「神楽さん」

 弱々しいが、間違いなく美佳の声が応じた。

「どうしたの! ずっと心配してたんだよ」

 思わず大きい声を出して、自分でしまった、と思う。心が弱ってるかもしれない女の子に強い口調で迫るのはよくない。

 彼女は一瞬泣いたのかという気配がしたが、それは微かな笑いだった。

「ごめんなさい、ごめんなさい。心配してくれてたの、すごくよくわかりました。すみませんでした」

「あ、いや、いいんだけど。何かあったのかって心配するじゃない」

「何かって……訳じゃないんです。少し、疲れちゃってたというか、気が張ってたのがとれたのかもしれません」

「ああ、そうだね。あんなことが立て続けに。こっちこそ、ごめん」

 美佳は黙っている。

「もし出られるようなら、少し外に出てみる? 俺、今から高田馬場までいくよ」

「えっ。いいんですか」

 美佳は本当に驚いたようだった。

「そんなに、私なんかにつき合ってくれるんですか」

「だって、心配じゃないか。俺も乗り掛かった船だし、さ」

「本当に?」

「本当だってば」

 美佳の声が明るくなってきた。

「私、時間なら大丈夫です。友だちに会いにちょっと高田馬場駅に行ってくるって言えば、叔母もそんなに心配しないと思うし」

「そうか、よかった」

 とりあえず俺はほっとして大きく息を吐き、通話ボタンをオフにした。

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