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第40話

 ただ、その言葉「ミサキ」を俺は美沙子夫人には話した。美佳も知っているはずだ。そのことには、この連中は気づいていない。どうする?

「何も言ってない」

「嘘をつけ」

 また殴られた。美佳の泣き声が響きわたる。その悲愴な声のほうが、俺には辛かった。

「……思い出す。少し時間をくれ」

 破れかぶれで俺はつぶやいた。実際よりも弱ったふうを装って。

 うつぶせになってまた仰向けになった。痛みがジワリと響いてくる。

 あまりダメージを受けると、俺は美佳を助けられなくなる。

 幸い、骨折するような強さではない。まだそこまで行っていない。だが、俺は喘ぎながら考える素振りをする。

「どうした。思い出せないわけはないだろう。まだ足りないようだな」

 男が木刀を振りかぶった。俺は次の打撃に備える。


 そのときだった。

 とんでもない耳をつんざくような音と、振動が響きわたった。見ると、半地下の一角が崩れている。

 爆破された?

 とにかくこの一瞬のスキが唯一最後のチャンスだ。

 指に挟んでいたカッターの刃で、俺はロープを引きちぎった。両腕の自由を得て、俺は美佳のもとに走る。美佳が何かいう暇もなく、彼女を抱きかかえ、階上目指して突き進んだ。

「こいつ!」

 男どもが追いかけてくるのを階段から蹴り落とした。

 奴らは動揺している。大したことないじゃないか。所詮チンピラどもだ。

 幸い、鉄の扉は開いていた。

 鉄の扉を抜けると、それまでやや呆気に取られていた美佳が両足をついて走り始めた。軽くなると同時に自分の身体の方が重くなるのを俺は感じた。まだ、ばててはいられない。廊下を突っ切って、玄関を目指す。

 奴らの車のタイヤを何とかパンクさせられないか、先の尖ったものはないかと辺りを見回す。そんな都合のいいことはないかと思った瞬間、すでにタイヤがパンクして空気が抜けていることに気づいた。

「こっちだ」

 聞き覚えのある声。

 九段。

 なぜ?

 しかし、直感で少なくとも今の九段は「味方」だと判断した。少なくとも、俺をどうかしようとも、美佳に手出しをするような男ではないと俺は感じていた。

 月影に九段の顔が半分照らし出される、それを見つけて俺は走った。美佳もついてくる。必死に駆けてついてくる。

「この子を頼む!」

 俺は叫んだ。地獄に仏、とは言い難いが、美佳の安全な道はこれしかないという思いで。

 九段の後ろには例の軍隊あがり。意外なことに、いかにもという黒塗りではなく、小型トラックだった。

 俺は美佳を載せてもらえるのか一瞬不安になったが、九段は俺と美佳を助手席に招き入れ、驚いたことに自ら運転を始めた。軍隊あがりはjeepに素早く乗りこむ。

 エンジンがかかったとき、ほっとして力が抜けた。

 気づくと美佳ががっしりと俺にしがみついてぶるぶる震えている。まるで雨の中の子猫のようだ。

「大丈夫。この人は君に手出しはしないよ、な、九段さん」

 俺が言うと、美佳はぱっと顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃだった。

「何で!」

 彼女は叫ぶ。

「私なんか、放っておけばよかったのに。来ないで来ないでって、ずっと思ってたのに」

 俺は言葉を失った。美佳はとらわれている間、そんなふうに考えて苦しんでいたのか。思いもかけなかった。

 九段が息を抜くような笑いをした。

「お嬢さん、単細胞な人は物を考えないものなんだ」

 かっとして九段を睨む。俺は直情的なことは認めるが、単細胞では決してない。

「神楽さん、神楽さん」

 美佳はまた俺の腕に顔を埋めて泣き通しだった。

 ふと九段と俺の目が合った。不思議なことに何かが通じ合ったような気がした。俺は美佳の細い肩を軽くたたき続けてやった。体はじんじんと痛んでくる。眠ってしまいたい衝動に駆られたが、さすがに九段の前でそんな無防備は避けたかった。けれど、目をつぶった。疲れた。

 美佳が俺の左手首をいじっている。目を開けてみると、美佳がきれいなレースのハンカチで手を汚して包帯がわりに巻いてくれていた。そういえば、ロープを切るとき、刃が掠ったっけ。

「神楽さん、痛くないですか」

 痛いと言えば痛いが、俺は笑った。

「お前、どうやってロープを切った? 時代錯誤のスパイ術から学んだのか?」

 九段が言う。

「用意していた。カッターの刃の先を切って、セロテープにつつんでここ、舌のしたに入れておいた」

「ふん、なかなかやるじゃないか」

 九段が皮肉に言う。

 本当は俺だって訊きたいことはある。なぜ、俺と美佳の居場所が――奴らのアジトが分かったのか。九段と陸軍中野学校の関係者はつながりがあるのか? 

 にしても、あの派手な爆発には俺も度肝を抜かれた。九段という男は案外に荒っぽいことをするじゃないか。

 しかし、あまり込み入った話を美佳に聞かせたくはないので黙っていた。こびりついていた血を舌で舐めとった。血の匂い。あやうく血まみれになっていたかもしれない。

 あらためて俺は息をついたが、美佳が狙われた以上、このままにはしておけない。あの高田馬場の叔母の家では危険すぎる。どうしたものか。

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