目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第45話

 さすがに気色が悪いが、この本をどこかに捨てるわけにはいかない。俺はそれをビニール袋に入れて輪ゴムで留め、さらに紙袋に包んで、キッチンの棚の一番下の引き出しにしまった。

 どうしようか迷ったが、今さら不安になることもない。リビングに入ると、スマホを取りだし、九段の番号を呼び出した。

 またしても鳴りっぱなし。奴は電話をすぐにとることはしない主義かもしれない。

 今日の暑さで体は汗でべっとりだ。すぐにシャワーを浴び、涼子が大量に差し入れてくれたシップを貼り、痛み止めを飲む。

 スマホを念のため枕元において、ベッドに横になった。


 神経はまだ休まらず、天井を見上げながら昼のことを思い出していた。

 美佳の表情が浮かんだ。

『片思いってつらいですね、思っていたよりずっと』

 彼女に会ってほんの数日だが、いろんなことが俺にも彼女にも降りかかった。ある意味、こんな特殊状況で彼女が俺を頼るようになり、それを自分でも勘違いしてしまうのはありうることかもしれない。そう思うと少しほっとしてきた。この状況の片がつけば、彼女も落ち着くに違いない。


 片方で俺は涼子を思い浮かべる。彼女にまた会うことはできるのだろうか?

『手を引いて。お願い』

 この紙片を俺は肌身離さず持っている。ダメだよ、涼子。もう、俺は決めているんだ。君の気持はとにかく、真相を突き止めずにはいられない。

 涼子の涼し気な目元、黒目がちの眼、小柄ながら敏捷な動き。君に一発で魅せられてしまった。

 君が俺の前に現れたのはなぜか? あの時から俺は自分の運命を決めたんだ。どうか、答えてほしい。

 これから、美佳の母、高田社長の美沙子夫人を訪れる。

 美佳の母親、美沙子夫人の病院は下落合が最寄だが、少し遠回りしてから訪ねた。面会時間終了のぎりぎり30分前だった。

 当然だが、俺が病室に入ると美沙子夫人は驚いたように上半身を起こした。

「あ、すいません。そのままで結構ですよ。突然お訪ねして申し訳ありません」

 考えてみれば、事件現場に居合わせただけの俺がもう一度見舞いにきたというのは、彼女にとっては予想外の話だろう。

 俺はベッドサイドの丸椅子に腰かけた。

「その、どうしても気になってしまって……」

 不安にさせないように、ごく素朴な質問をするように声を発する。

「先日お訪ねしたときに、僕は高田さんの最期のお言葉をお伝えしました。それで、あなたは『ミサキ』という言葉に心当たりはない、と。ご自分のお名前のことだろうとおっしゃいました。……部外者の僕が入りこむことではないんですけど、どうしても僕には語尾が『キ』と聞きとれて、それでもう一度だけ確認させていただきたくて」

 婦人は表情を変えていない。少し弱々しく微笑むと、穏やかに答えた。

「そうだったんですね。主人の最期の言葉を正確に伝えてくださろうとしているのはわかります。でも、本当に全く心当たりはないんです」

「……そうですか。あの、立ち入ったことをお尋ねして恐縮ですが、他の方に確認はされましたか? 高田さんの会社関係の方とか、ご友人の方とか」

「いいえ、私からは――」

 俺の中に緊張が走った。

「尋ねられたことはあるのですか?」

「ええ」

「それは……」

「主人の大学の後輩の峰岸さんという方、主人をとても慕って下さっていた方なんですけど、何か言い遺されてないですか、と訊かれて、私はプライベートなことですし、……正直主人が最後に私の名を呼んでくれたというのがとても大切なことだったので、峰岸さんにも、何も聞いていないとお答えしたんですの」

 「峰岸」。大学の後輩。いくつぐらいのどういう人物か、気になったがこれ以上は尋ねられない。不信感をもたれてしまうだろう、と判断した。

 その後、俺は丁寧にお見舞いとお悔やみの言葉を述べ、退室した。

 「峰岸」。それが何者かはまったくわからないのに、帰る道々、俺はなぜか竹橋のことを思い浮かべていた。もう思考力が落ちつつも、奴の人を食ったような、それでいて何か底知れない執念のようなものを秘めた眼光が繰り返し浮かんでくる。


 さっきの血濡れの本が憂鬱さを掻き立てた。もちろん、あんなものを自宅に置いておきたくはないが、とっておかなければならない。そういう気がした。

 マンションに戻ると、1日の疲れがどっと出て、俺はベッドに寝っ転がった。考えるのは明日にしよう、そう思った。


 翌朝、俺は思い切って涼子のスマホにまた電話をかける。案の定出ない。メールで『竹橋、ないし峰岸という男に心当たりはありませんか? 大事なことなので、返信してください』と打ち込む。

 『手を引いて』とまで涼子が言ってくるということは、彼女は俺のやろうとしていることを知っているし、高田社長銃撃事件に関して何かを知っている。いまさら迷うことはない。直接に訊いてみることにしたのだ。

 もしかしたら、何か返信を返してくれるかもしれない。そういう淡い期待も抱いていた。彼女が――理由はわからないが――こんな危険なことにかかわっているのに、ただ傍観などしていられるものか。自分の表情がおそらく険しくなっているだろうことにあらためて気づいた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?