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第46話

 次は九段にあの血濡れの本の件について問いただそうと考えた。

 スマホの電話帳を呼びだそうとしているところに、着信があった。飯田だった。うっかりしていた。飯田とは、金曜の夜に品川で木場さんに会うと約束していた。ふっと「異業種交流会」のことが頭を過った。そういえば、あの「陸軍中野学校」の残党のような連中も、表向きは異業種交流会と称して活動しているのだ。

 電話に出ると、飯田の声が飛びこんできた。

「悪い、朝から。神楽、元気にしてるか?」

「ああ、おはよう。まあまあだよ」

「そっか。会社の方はあれからあまり動きはないよ。そろそろ出勤停止も解除になるんじゃないか?」

 俺にとってはむしろ望ましくないことだ。徹底的にあの事件の背後と涼子のことにかかわりたいと今は考えている。もしも『出社しろ』との連絡が来ても、有休を使ってしばらくは出ないつもりだった。

 飯田の声が――申し訳ないが――能天気に思えて仕方がない。しかし、あの約束を違えるのは気が引けた。それに異業種交流会というのにも興味はある。

「それで……」

 少し言いにくそうに飯田が切りだそうとするので、こちらから答えた。

「木場さんと会う約束だろ。OKだよ、場所と時間を教えて欲しいな」

「よかった。実は彼女に会って欲しいのもあるんだけど、神楽がどうしてるかも気になっててな。じゃあ、店と時間を言うから、直接来てくれよ」

 飯田の弾んだ声を聞いて、少し苛立っていた自分が後ろめたくなった

 飯田との通話を終えた後、すぐに九段に電話した。

 九段は驚いたことにすぐに直接電話に出た。

「神楽くん、何かあったか?」

「ああ」

 俺はかいつまんで昨日の出来事を話す。美佳のことは礼を言い、馬場のことについては嫌味をつけ足した。

「馬場が来たのは偶然か?」

「どういうことだ」

 馬場は本当に俺を直接つけていたようなふうだったが、あえて言う。

「あの男もあんたの駒なんじゃないか?」

「何のことかわからないな」

 わざとらしくしらばっくれる九段をそれ以上追及する気もしなかった。

 いちばん訊きたいことを最後に切りだす。

「あの美佳をさらった連中を、あんたらはどうした?」

 九段は「くくっ」と笑った。

「おめでたい奴だな。自分らをいたぶった連中の心配までしてるのか?」

「真面目に訊いてる。夕べ、俺の部屋のドアポストに血濡れの本が入れられていた。あれは、あのことの前に、俺が『竹橋』って奴から直接借りたもので、現場に置きっぱなしにしてきたんだ。おそらく……」

「挑発的なことをする奴だな。あの竹橋って男は」

「あの連中、あんたは皆殺しにしたのか?」

「さあ、な」

「とぼけないで教えろ」

「何でだ」

「あんたがどういう奴か俺はまだよく知らない。ただ、涼子にはかかわらないで欲しい」

 そう言うと九段は高笑いした。

「いつから涼子の『男』になったつもりだ?」

 九段のいい方にさすがの俺もかっとした。

「あんたこそ、涼子さんに付きまとうのはやめるべきだ。彼女は嫌がってるんだろ?」

「いやでも、俺を拒否しきることはできないんだ、彼女は」

 俺は耳を疑った。涼子の清楚な顔が瞼に浮かぶ。信じられない。心臓がどす黒い血でどくどく言いはじめた。

「ただし、受け入れることもなかなかしてくれないがな、彼女は。追う側としては、そのほうがよほど魅力的だ。従順な女などうんざりしている」

 癇に障る言い方だ。だが、一方でやはり涼子は九段を受け入れてはいないことに内心胸をなでおろす。こんなふうに一喜一憂する自分が情けないが、それが真実だ。

 ふと、俺自身も九段と同じ立ち位置だということに気づく。

 涼子に告白したあの夜。東池袋の首都高下で、俺は真剣に彼女に想いを告げた。彼女は困ったような顔をして――あのときの不安感が今も生々しくよみがえってくる――理由もはっきりとは言わずに俺を拒否した。そのくせ、その直後に九段に捕まった俺を見つけだした。それは、彼女が俺の後をつけていたということになる。

 あの夜、涼子と九段は久々に再会したようだった。

 そのあと何があったのかはいまだわからないが、少なくとも涼子は九段を受け入れていない。だから九段はこうして俺を拒否しない。

 九段に言わせれば、俺は涼子を釣る「えさ」だとしても、だ。

 少なくとも「えさ」にはなる存在だ。

 『手を引いて。お願い』の紙片、『涼子がお前の間に現れたのは偶然ではない』との九段の言葉。ふいに初めて涼子に会った歌舞伎町での一件が浮かんでくる。

 あのころから、涼子はすでに俺を知っていた!

「ところで」

 九段が話頭を転じたのではっと我に返った。

「あの連中のことは今うちの者たちを使って調べさせている」

「陸軍中野学校の残党のことか」

「もちろん。奴らは誇大妄想の塊だからな。身の程知らずにもわれわれに復讐を企てるだろう。機先を制しておこうというわけだ」

「……俺は、その仲間に加われないのか」

 俺の言葉に、九段は少し虚を突かれたようだった。

「本気でやくざのしもべになるつもりか」

「冗談じゃない!」

 いきり立って俺は叫ぶ。

「誰があんたらのしもべになるなどと言った。ただ、あいつらには俺も因縁がある。君たちだけに任せてしまうのは口惜しいだけだ」

「威勢がいい奴だな、はは」

 俺は黙った。挑発には乗るまい。

 しばらくすると、九段が口を開いた。

「わかった。それで構わない。組の者にもきちんと話を通しておこう。いずれにせよ、あいつらが中野から新宿へ延して来ているのは私も気に食わないところだったのさ。君が加わりたいというのなら、拒みはしないさ」

 こうして俺は、九段の組の者たちと行動を共にすることになった。

 虎穴に入らずんば虎子を得ず。

 涼子のこと、美佳のこと。

 すべてについて、この九段を信じているわけにはいかないのだ。

 俺は、やくざ、いや暴力団か、その懐に飛び込む。

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