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第48話

 早田が時間を見た。長時間の調査は避ける方針だ。連中とのいたちごっこを続けるしかない。

 とにかく、最大の目的である高田社長の書斎は調べつくした。俺たちは撤退することにした。

 早田と茅場は手際よく、部屋に侵入したことが分からないように元に戻し、俺に合図した。無言で部屋を出て、玄関に向かう。

 玄関まで来て、俺も違和感を持ったが、早田と茅場は早かった。さっと拳銃を取りだして構える図を見たときは、さすがに俺は驚愕し、思わず息を止めた。玄関の鍵はもちろん閉めてあるし、昔風のがっしりとした閂さえかけていたが、扉の向こうには確かに人間の気配がある。

 人間の気配。

 俺はただ違和感を持っただけだったが、早田と茅場は本能的に察知したのだ。むしろ彼らの行動で、俺も人がいることに気づいたという方が正確だろう。

 実際には2、3秒の出来事だった。早田が俺を突き飛ばし、茅場が素早く反撃する。

 玄関の扉自体は頑丈なものであったが、扉面の右にある厚手の灯りとり用のわずかなガラス面が砕け散った。

 銃弾だと気づいたときには、それは止んでいた。

 人の動く気配。低い複数のエンジン音。自動車ではなく、バイクだ。

 もとより、連中もこの静かで入り組んだ住宅街で銃撃戦を繰り広げるつもりではなかったようだ。

 それでも、俺たちは通報を受けた警察が来るよりも先に、裏口を確認して外へ出た。乗ってきた車は無事だ。連中も脅しをかけつつも、俺たちを警察に曝して、今の状況を大っぴらにすることは好まなかったのだろう。

 15分後には俺たちは飯田橋のビル内にいた。

 ただただ翻弄されている身だが、しようもない。

「このフロアは九段さま専用のお休みどころです。我々は、九段さまに命じられ、ここにいます。いいですか、この場所のことは他言無用ですよ」

 慇懃な早田の口ぶりが鼻につくが、俺は無言で頷いた。もともと九段の秘密など俺には関係がない。涼子から離れてくれさえすればいいのだ。

 飯田橋のオフィスビルのワンフロア。どこかの会社の社長室のようだが、九段が実際に代表取締役社長の座に収まっている会社のそれではない。いかにも、というように広い窓を背景にして大きなデスクが鎮座し、偉そうなチェアがある。

 ふつうの社長室とおそらく違うのは、ソファが向かって左右にあることだ。ちょっとした打ち合わせ、秘密の会合、そのためのものだろうか。いやいや、案外本当に九段はこのソファに寝そべって休んでいたりするのかもしれない。そういう姿を想像していると、顔に出ていたのか、茅場ににらまれた。俺は真顔に返り、所在なく立っていたが、早田が促すので右側のソファに腰かけた。ずぼっと沈む感触を予想していたが、案外硬い。お休みする場ではなさそうだ。

 すっと外に出て、携帯で通話していた早田がまた戻り、まもなく九段が来ることを告げた。社長は暇なのか、と言いたくなったがやめた。油断は禁物だ。馬場にしろ九段にしろ、いつの間にか気を許している自分が情けない。俺は人が好過ぎる。

 沈黙が支配する。本当に九段の部下たちは、無駄なことを一切しないよう訓練されているようだ。俺も慣れてしまった。ミラーカーテンがかけられているが、室内は照明が不要なほど明るい。

 今頃あの高田社長の家には警察が駆けつけていることだろう。またも馬場が出てきそうだ。馬場にまた接触されたら、いっさいを知らぬ存ぜぬで通せばいい。鎌をかけられないように、今回の事件の報道があるのか、あるとしたらどういう内容かは見ておこう、と考えた。

 同時に、もう美沙子夫人と美佳はあの家に住むことはできないだろう、その原因を作ったのは俺だ、と思い気が滅入る。

 エスカレーターの到着する音が外に聞こえた。

 早田と茅場がさっと整列して部屋の入口方向に顔を向ける。こいつら、どれだけ九段の忠実な子分なんだ、と俺は呆れた。俺は彼らの後ろに立つ。

 九段が、今日は紫がかった少しその筋めいたスーツで足音もなく入ってきた。そして、その後ろにかなり年配らしい、しかし眼光鋭い男がついているのを目撃し、俺は興味と不安を同時に覚える。

 九段を利用してやる、などと威勢のいいことを言ってはいたが、いざこうやって次々と九段の周囲の人間たちの顔を拝みつづけるようになると、やはり入ってはいけない世界だとも感じる。

 いや、俺にとって大事なのは、涼子のこと、そして今は九段の世話になっている美佳と美沙子夫人のことだけだ。

 そこさえ譲らなければ、あとは適当にやり過ごしておけばいい、そういうふうに自分に言い聞かせる。

 年配の男は小男と言ってもいいが、言いようのない不穏な雰囲気を醸し出している。古ぼけたクリーム色のシャツ(しかしおそらく仕立てはよい)にやはり年代物と言っていいようなスーツのスラックス。髪は服装に比してぼさぼさで何日も洗っていないかのように見える。革靴も薄汚れてはいるが高級品だ。一見して正体の分からない風貌。眉もヒゲの剃り跡も濃い。年齢にしては髪が真っ黒なので、手入れしていないように見えて、実はきちんと染めているようだ。

 早田と茅場は同時に礼をする。どこでここまで合わせているんだ。練習でもしているのか。

 ただ、俺の見たところ彼らもこのご老人には面識はないと見た。素早く九段と男を室内に案内するというよりは、九段の顔を指示を待つように見たのだ。

 阿吽の呼吸で九段は、

「私の世話になっている落合殿だ。皆失礼のないように。早田」

「はっ」と答える早田に九段は目配せを送り、早田は向かって右手の衝立の奥に引っ込んだ。

 まもなく早田がもう一つ、椅子を出した。一人掛けの肘掛け椅子。それをデスクの右側に置き、素早く老人の方に駆け寄った。

 老人は早田に促され、椅子まで歩く。

 老人は身体のどこかが不自由なようには見えなかったが、どこか悪いのだろうか。顔色は確かに良くない。皮膚はかさついている。目だけがぎょろぎょろとして精気を放っているのがやけにアンバランスに見える。

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