目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第49話

 老人がデスクの右前に陣取り、九段がその手前のソファ、早田と茅場が向かい側のソファに着席したので、俺も茅場の隣に着かざるを得なかった。

「落合殿、お時間をとらせて申し訳ありません」

 九段がやけにへりくだる。

 落合と呼ばれた老人はそれが当然であるかのようにふるまっている。

 が、九段の一派というのとは少し違うような気がした。醸し出す雰囲気があまりにも違うのだ。

 「茅場、例のものを」

 九段が促すと、茅場は傍らのドキュメントケースから、《例のもの》を取りだした。九段も一緒に身体を前に出してそれを凝視する。表情は変わらない。落合も無言だったが、気のせいか目を細めたように見えた。どこか意味ありげに。

「面白そうなものを預からせてもらって、感謝するよ。九段くん」

 落合は言う。これまで九段にこのような口のきき方をする人間を間近に見たことはなかった。

「いつくらいになら、判読できそうですか」

「そうだな、確言は出来ないが明日の午後なら」

 俺にはこの会話はもどかしくてしようがなかった。

 おそらくこの落合という老人がこの暗号を解読し得る人間なら、もうおおかたは分かっているのではないのか。

 落合が立ち上がって出ていきそうになり、早田と茅場が素早く送りの姿勢になるのを見て、俺は我慢ならなくなった。

「ちょっと待ってくれ」

 我知らず俺は声を発した。

「少しくらい、どういうことか教えてくれてもいいんじゃないか。なにせこっちは命がけでこれを手に入れてきたんだぜ」

 早田と茅場の凍るような視線が向けられるより先に、九段のきっぱりした声が向けられた。

「神楽くん、口を慎みたまえ。この方には、我々が無理を承知でこの暗号の解読をお願いしているのだ」

 俺は口をつぐんだ。

 老人が部屋を立ち去った後、俺は九段を睨みつけながら尋ねた。

「あれは何者なんだ。落合というあの人は」

「知らない方がいい」

 ぴしゃりと九段は言う。その思わせぶりな言い方がいちいち癪に障る。知らない方がいいなら、どうして俺をこの場に連れてきたんだ。そのことを言ってやろうとしたとき、九段が言葉を継いだ。

「あの方は、涼子と関係がある」

 絶句した。関係がある、とはどういうことだ。全く何も思い浮かばない。ただし、涼子が今回の一連の事態に何らかの関わりを持っていることは、すでに分かっている。まるで闇の中の微かな細い糸を手繰るようなもどかしさだ。九段は知っていて、少しずつ現実を漏らしていく、意図的に俺をいたぶっている。俺は歯噛みした。

「それは……どういうことだ。孫、とか」

 言いながらそれはおそらくないだろうと思う。

 涼子は弟と二人、福島で冷淡な親戚の家で育ったと言っていた。涼子が嘘を言っている可能性もある。けっして悪意からではなく、明かせない事情があった可能性もある。ただし、弟のことは本当だ。卓也という名前だった。彼女がその弟をただならずかわいがっていることは、いつぞやの都電荒川線の車中での彼女の笑顔からもよく分かる。ふと思いついて、九段に尋ねた。

「お前は、涼子の弟を知っているのか。卓也さんという名前の」

「いや」

 九段の言葉に嘘はなさそうだった。

「弟がいることは知っている。涼子について調べて、それは知っているが、会ったことも、顔を見たこともない」

 涼子が、俺に話したように、この九段に対して「卓也」のことを詳細に語ったとは考えにくい。

「孫……か」

 九段は俺の当てずっぽうに反応した。意外だった。

「あのご老人は、私でも手に負える相手ではない。孫がいるのかどうかさえ、よくは分からないんだ」

 素っ気なく九段は答えた。

九段がそういう《世界》でどれほどのものかは分かりかねるが、なかなかのタマではあるのだろう。その九段でも手に負えない老人、しかも九段の身内ではないようだ。一体何者なのだろう。相当に歳を重ねているように見えたが──。

「それはそうと」

 九段が話頭を転ずる。

「君はしばらく私たちと寝食をともにしたまえ。神楽くん」

 もし俺がコーヒーでも飲んでいたら、間違いなく吹いていただろう。

「なんでだ」

「君一人で自宅にいるのは今は危険すぎるんだよ。分かるだろうに」

 まるでお守りのような溜息をつく。それに腹を立てるより早く、俺は気がついた。

「涼子は!」

「涼子がなんだ」

「彼女は、何らかの関りをこの事件について持っているんだろう。彼女は安全なのか、大丈夫なのか」

 九段が苦笑を漏らした。

「なぜそんなことを俺に訊くんだ。そもそも涼子をこの手のうちに入れられるくらいなら、君などに用はない」

 確かにその通りだ。不思議なものだ。いくらでも世の中が思うようになりそうな九段が、涼子だけはそうはいかないらしい。しかも、そのことを隠さずに俺にまで言う。奇妙な気がした。

「……涼子はどう関わっているというんだ」

「さあ、ね」

「ごまかすな」

 そう言いながらも、こいつは絶対にこの秘密は口にしないだろうということは感じる。

 涼子は今どこでどうしているというのだ。

 会うこともかなわない。そして、俺は九段の指示通りに動くような身になり果てている。だが、すでにこの件にはとことん関わっていくと決めたのだ。そしてそれは、美佳のことにも関わる。

「今夜はこの近くのホテルを用意してある。早田と茅場にあとで案内させよう」

 当然のように九段が言う。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?