「やれ!佐伯!」
成瀬の叫びが、崩れゆく空間に響き渡った。
石は脈動するように微かに光を放っていた。
石を砕けば、黄泉の世界との繋がりは断たれる――
だが、成瀬もまた、消えることになるのではないか?
迷ってはいけない。
佐伯は、奥歯を噛み締め、全力で『現世と黄泉の世界を繋ぐ石』 を地面に叩きつけた。
バキッ……!
鋭い音が響き渡り、石は砕け散った。
その瞬間――
影が、割れ目に吸い込まれていく。
「やったか……?」
佐伯は、荒い息を整えながら辺りを見回す。
黄泉の影は、苦しむように蠢きながら裂け目の奥へと吸い込まれていた。
呻き声がこだまし、存在が薄れゆくように闇へと消えていく。
佐伯が一歩後ずさった瞬間、
ズルッ――!
黒い影が、最後のあがきのように成瀬へと群がった。
「見てしまったな……」
「知ってしまったな……」
「お前も、もう……」
成瀬の周囲に、無数の黒い手が絡みついていく。
「くそっ……!!」
成瀬は、必死に影を振り払おうとするが、
すでに彼の体は裂け目に沈み始めていた。
「成瀬!!」
佐伯が駆け寄り、成瀬の腕を掴む。
だが、成瀬は すでに半分、向こう側へと沈みかけていた。
「……佐伯、ここから逃げろ!」
「ダメだ! お前も来い!!」
「もう……遅い……俺は……」
成瀬の 手が、黒く変質し始めていた。
まるで、自分の身体が影に還るように――。
佐伯の目が揺れる。
「だめだ……!まだ間に合う!!」
「いいから……行け……」
そして――
成瀬は、黄泉の世界へと沈んだ。
佐伯の手は、ただ虚空を掴む。
目の前にあったはずの彼は、完全に消えていた。
そして、裂け目もゆっくりと閉じていく。
黄泉の影も、すべて消えていった。
世界は、静寂に包まれた。
火葬場の周囲には、何もなかったかのような沈黙が広がっていた。
佐伯は、その場に膝をついた。
「……成瀬…」
黄泉の世界への扉は、閉じた。
それが、何を意味するのかは――もう、分からなかった。
□ □ □ □ □ □ □ □ □
目を開けると、成瀬は見知らぬ場所に立っていた。
黄泉の世界。
そこには町も建物もない。
ただ、無数の影たちがうごめく、暗黒の世界が広がっていた。
空も地面もない。
あるのは、形を持たない闇の塊だけ。
そして、彼の目の前には――
「もう一人の成瀬宗一郎」が立っていた。
「やっと、来たな。」
影の成瀬は、まるで待ちわびたかのように微笑んでいた。
成瀬は息を呑む。
それは 20年前に死んだはずの成瀬なのか……?
成瀬は 自分がすでに人間ではないことを悟った。
「俺は、いつからここにいた?」
影の成瀬は、一歩近づく。
「体を返してもらうぞ。」
□ □ □ □ □ □ □ □ □
成瀬が消えてから数日後――
佐伯は雪に閉ざされた火葬場から、ようやく脱出した。
白銀の世界は、何事もなかったかのように静まり返っていた。
町は変わらず、そこにあった。
いや、そこに"あるように見えた"。
だが、何かが違う。
町の家々は整然と並び、通りもいつも通りのはずだった。
しかし、異様なまでに静かだった。
住民の気配が感じられない。
――黄泉のモノたちは、この世から消えたのか?
――それとも、この町そのものが、すでに"向こう側"の世界と入れ替わっていたのか?
成瀬の姿は、どこにもなかった。
彼は、もうこの世界にはいない。
どこへ行ったのか――いや、どこに "戻った" のか、佐伯には分からなかった。
あの最後の瞬間、黄泉の裂け目に沈んでいった彼の顔が脳裏に焼き付いている。
それは、覚悟した者の表情だったのか。
それとも、"こちら"に残れなかった者の顔だったのか――。
成瀬が犠牲になったが、この世と黄泉の世界を繋ぐとされる石は破壊された。
黄泉のモノたちは、この世に二度と来ることはできないだろう。
……本当に、そうなのか?
佐伯は、火葬場の門の前で立ち止まった。
佐伯の胸の奥に、微かな疑念が残る。
黄泉の世界への扉を閉じたつもりでも、
それが本当に"正しい終わり"だったのかは、誰にも分からない。
彼女は振り返らずに、ただ町を後にした。