里来は自室に戻り、常備灯を手にまた飛び出してきた。その勢いのまま巨大階段へ向かう彼をオレたちは追う。
「里来さん」
「お前ら待ってろ!」
「一緒に行きます!」
照明の無い巨大階段は、上階から洩れ入る灯りが届かなくなると真っ暗になる。そうなると歩みは数段遅くなるので、オレたちは常備灯を持った里来に引き離されないよう必死で食らいつく。
真っ直ぐにずっと駆け下りてゆき、やがて、踊り場から段が左右に分かれているのを目にしたとき、背後の伊織が「あっ」と声を上げた。
「なんだよ!?」
「後で説明する。〝あれ〟は僕の勘違いだ」
意味深な彼の言葉にこれ以上注意を払う余裕はない。里来は踊り場を右に行く。彼の持つ灯りが見えなくなる前にオレたちも続く。
地下庭園の入り口が見えた。アーチ形の扉は閉まっている。
「文哉! いるか!?」
足を緩めず階段から里来が叫ぶ。帰ってくる言葉は無い。下に着くと彼はすかさずノブを掴んだ。だが鍵が掛かっているようだ。彼は何度も扉を乱暴に叩き、
「オイ、返事しろ文哉! 大丈夫か! オイ!」
そして何か思いついたように突然手を止め、身を屈めて鍵穴を覗き込んだ。
彼が息を呑むのがわかった。オレは察してしまう。いや、察するというのなら、ヒュウガの叫ぶのを聞いたときにすでにオレたちには何が起きたのかわかっていた。
薄墨色の目を大きく見開き中を覗いていた里来はゆっくりと瞼を閉じ、次の瞬間には今来た階段を駆け上がっていた。
「どこへいくんです」
「裏口だ!」
彼は踊り場の向こう側――上から下りて来たとき踊り場の左手に見えた階段の方を、飛び下りるような速さで進んでゆく。やがて前方に見えた金属製の扉を開け、彼は中へ飛び込んだ。オレたちもすぐに続く。
照明が点いた。里来が点けたのだ。そこはたくさんの機械類や管に囲まれた部屋だった。四角い冷蔵庫のようなものが鈍い起動音を響かせる。里来はそれらには目もくれずに部屋の奥の左手に見える扉へ向かい、ノブを回した。こちらも開かない。彼は扉につけられた横長の小窓から中を覗き、がちゃがちゃとノブを揺すり、悪態をついて扉を蹴った。踵を返し、オレたちを押しのけるようにしてまたアーチ形の扉へ戻ってゆく。
オレは里来を追いながら、
「鍵は今どこにあるんですか?」
「おそらく、中にいる文哉が持ったままだ」
「じゃあ扉を破りましょう」
「手前開きだから素手じゃ無理だ。道具がいる」
「僕が取ってきます」
伊織が里来から常備灯をもらって走り出した。だが踊り場まで行くと彼は足を止めた。視線は階段の上部を向いている。誰か下りてくるらしい。
「伊織様!」
と言ったのはどうやらイズミのようだった。伊織はこちらの方角を指さしてイズミを誘導する。角を曲がってきたイズミの後ろにはヒュウガもいた。二人は手に斧とバールを持っている。
「何とかこれで開けられないかと」
「貸せ」
里来がイズミから斧を奪い、扉の鍵穴付近に刃を振り下ろす。鈍い音がし、木製の扉に刃の分だけ縦に亀裂が走る。それを何度か繰り返す。やがて金属のかんぬき本体が見えてくる。
オレはそのかんぬき本体にバールを引っかけめりめりと木から引き剥がそうとするも、これが固くて難しい。伊織と交代で力を加える。しばらくするとまた里来が斧で木の部分を崩す。汗がこめかみを伝う。
やがて、くの字に曲がったかんぬき本体は高い音を響かせて床に落ちた。すかさず里来が扉をこじ開け、中から白い光が洪水のように押し寄せる。
眩しさに顔をしかめながら見えたのは、走ってゆく里来の背とその先に倒れる人物。
「旦那様!」
と叫んでヒュウガとイズミが飛び込み、オレと伊織もそれに続いた。
文哉は、入り口から小道を少し行ったところに仰向けに倒れていた。その表情は穏やかで、瞼は閉じられ、両手は鳩尾のあたりで組まれていた。衣服に目立った乱れは無く、外傷も見当たらない。
里来は数回文哉の名を呼んで肩を揺する。返事が無いとみると、口元に耳を近づけ、胸の辺りを鋭く凝視した。そして組んでいた文哉の手を解き、彼の左胸に自分の両手を重ね、一、ニ、三、四……。
「里来さん……」
オレは無意識に彼の名を零していた。きりきりと引き絞られるような胸の痛みを感じたのだった。彼はまだ希望を捨てていない……。いつものように表情を崩さず、たんたんと心臓マッサージを行う姿を、オレは哀しく思った。
里来は胸の圧迫をやめ、続いて文哉の顎を引き上げ自分の顔を近づける。そして、文哉の蒼く血の気の無い唇に――
「駄目です」
オレは里来に駆け寄り、腕を回して抱き込むようにその肩をがっしりと掴んでいた。人工呼吸の直前で里来の躰がとまる。
「邪魔するな、時間が無い」
「駄目です」
「何故だ!?」
荒々しくオレを引き剥がそうとする彼の耳元で小さく、彼にしか聞こえないように言った。
「外傷がありません。口から毒を飲んだのかもしれない。触れればあなたも巻き添えです」
オレの言葉は、オレ自身も驚くほど冷然として聞こえた。里来は動きを止め、脱力してうな垂れた。
今さら心肺蘇生をしたところで文哉は助からない。それは、能面のように色を失った彼の顔を見て全員が悟っていた。里来もわかっていただろう。けれど彼は、そうせざるを得ない衝動に駆られたのだ。
「離せナイト。痛ぇだろうが」
里来は掠れた声で呟き、オレを押し遣った。そうして口をかたく引き結び、眠っているようにも見える穏やかな文哉の死に顔を、じっと見つめていた。
◆
「文哉を部屋へ運ぶ。担架を持ってこい」
そう指示を出し、里来はふらふらと小道の先の蔓薔薇のトンネルを潜った。心配になったオレはついて行き、彼の数歩後ろを歩いた。赤、桃、白の薔薇たちの下を抜けると、東屋に出る。
里来は初日の夜のときと同様、東屋の柱と柱を繋ぐ平たい石の上に外側を向いて座った。オレもあの夜と同じように柱を隔てた彼の隣に、内側を向いて座る。すると、向かいの石の上に食事のトレーが置かれているのが目に入った。オレはそれに駆け寄り、中を覗く。ロールパン、オムレツ、ウィンナー、野菜のソテー、ヨーグルト、オレンジジュース。それらはほぼ手付かずであり、コーヒーが注がれていたと思われるカップだけが空だった。
「オイ」
と、突然里来が呼びかけた。オレは彼の方へ振り返り、その背中に目を向ける。
「ここはいつだって、馬鹿の一つ覚えみてぇに読書日和だ。毎年毎年、変わらねぇ。なぁ、お前。ナイト……お前はここで、どんな本を読みたい?」
『お前だったら、ここでどんな本を読む?』
数日前の彼の姿が重なって見える。あのときと同じ質問だ。そしてあの時と同じ後姿。
彼の向く遠い先には、庭園一の大樹がゆったりと枝葉を広げている。春の陽射しのような照明がその葉を鮮やかな緑に照らし、下の木陰にまだらな光模様を落としている。
『オレだったら、本よりも……あなたとゆっくり話をしたいです』
「本よりも、本物のあなたと話したいです」
答えると、里来は少し振り返り、横目にオレを見た。酒で紅潮していたあのときとは対照的な蒼白い頬。閉じた唇がぎこちなく弧を描く。
『くだらん答えだ。出直せ、ガキ』
彼の言葉が蘇る。同じ答えがくるだろうとオレは身構えた。何を言われても構わない。嘘はつけないし、ついても空しいだけだ。
里来は口を開くと、
「気が向いたらな」
と言って立ち上がった。そして東屋を下り、若草色の芝生を踏む。
「もっと話せばよかった……だから」
彼は振り向かず、花壇と植木に紛れるようにしてオレの視界から消えた。
追いかけてはいけない気がして、オレは再び石の上に腰を下ろした。