「死者への冒涜かもしれないけど、里来さんと一緒に彼の全身を隈なく調べたよ。でも死因がわからない。まったく外傷が無いんだ。そうなるとやっぱり結論は一つ。歌の四行目の意味からは外れるけど、毒物の口頭摂取を疑うほか無い」
伊織はそう言って、文哉の部屋の扉に背を凭せ掛けた。中ではまだ里来が文哉に服を着せているという。
イズミ、ヒュウガと共に居間で待っていた――オレは二人が文哉の部屋に行かないためのストッパー役だった。――オレは、様子を見てくると言って居間を抜け、文哉の部屋までやってきた。
結果を話す伊織の顔は浮かないものだった。四人目の死を防げなかった無力感は、彼の心を酷く曇らせているのだ。
「そういえば、杏子さんは居間に上がってきた?」
彼はのろのろと顔を上げて尋ねた。オレも彼女の様子が気になってはいたのだが、居間で彼女の話をしたときにイズミが『今朝のいざこざがまだ尾を引いておられるようで……。のちほど私がご様子を伺いに』と言ったので、何もできずにいた。
「杏子さんは来てないよ」
「そっか、わかった」
文哉の部屋は地下二階へ続く階段沿いにあるのだが、防音設備がしっかりしているため、人の通る足音や通常の話し声なんかは聞こえないのだと伊織は言う。
「さすが、金持ちの館は安ホテルとは違うな」
少し場を和ませようとして茶化すと、伊織はすぐ傍の階段を見下ろし、
「うん、そうだね。いい館だ。それにしても彼女、ヒュウガの叫びはさすがに聞こえてたと思うんだけどなぁ」
と言って、意味ありげに唸った。
そのまま廊下で少し待っていると扉は開き、中から里来が現れて二連の鍵をオレたちの眼前に晒した。
「ワインセラーと地下庭園の鍵だ」
彼はそれを自分のポケットに入れた。
オレたち三人が居間へ戻ると、イズミとヒュウガはソファの横に立って待っていた。
「杏子はどうした」
里来の第一声はそれだった。イズミが先ほどオレに話したように言うと、里来は無言で踵を返して出ていった。彼は杏子の部屋に行ったのだ、とオレは確信したが、あとの三人は気づかぬようで、ポカンとしていた。
十分ほど経って、両開きの扉は勢いよく左右に開かれた。初日に初めて会った瞬間を彷彿とさせる足取りでソファに近づいてきたのは杏子だった。
そこでオレは度肝を抜かれる。彼女の髪は驚くほど長かった。いつもは後頭部で団子状にされているものが、今はスタイルのいい尻のあたりまで垂れている。
服装がネグリジェなので、どうやら眠っていたところを起こされ、そのままの恰好で来たようだ。
「ねぇ、里来がふざけたこと言ってんだけど、あんたらもグルなの?」
杏子は眼鏡の奥で目をきつく光らせてオレと伊織を睨んだ。オレは彼女の言う意味を悟り、
「文哉さんが亡くなったのは本当です」
「無人、嘘ついてたらガキでも容赦しないよ?」
「嘘じゃありませんし、オレはそんな洒落にならない嘘をつくようなガキでもありません。信じられなければ彼の部屋を見てきてください」
相手が荒立っているので、こちらはあくまで冷静に伝える。すると聞くや否や、彼女は長髪を振り乱して居間を飛び出した。
居間からほど近い部屋だというのに杏子は三十分経っても戻らなかった。心配したイズミが自ら申し出て彼女を呼びに行き、連れ帰って来たときには杏子は涙濡れでしゃくりあげていた。
里来がソファから立ち上がり、全員に向けて言った。
「ここまでくれば疑いの余地はねぇ。この四日間で四人も死んだ。これは事故じゃない、事件なんだよ。この中の誰かが四人を殺した!」
皆の注目が里来に集まっていた。殺人の可能性を全員に告げることに反対だった伊織はやや不安を残した面持ちで、ヒュウガは目を見張り呆然と立ち尽くしている。イズミは杏子を宥めながら驚愕と恐怖の入り混じった様子で眉をひそめ、嗚咽交じりの杏子は顔を上げ、瞳孔の狭まった黒目を震わせて何か言いたげに口を開閉させている。
オレは……祈るような想いで里来を見つめていた。ここで終わりにしなければ。これ以上、絶対に、殺人が怒りませんように、と。
だいぶ広くなってしまったL字型のソファに六人で腰かけた。殺人が起きているということを、もはや誰も否定しようとはしない。オレたち三人はこれまでの推理を、順を追って話し始めた。
◆
「じゃあなにさ、犯人はエントランスの歌に見立てて私たちを皆殺しにしようっての?」
「ああ、そうだ。間違いない。このままのらりくらりと過ごしてりゃあ早々にみんなオダブツだ」
里来の容赦ない回答に杏子は額を押さえて下を向いた。
「このまま順当にいけば、次は五行目の〝ラプンツェルの髪が絡まり縺れども〟に見立てた殺人が起こります」
額に汗を滲ませた伊織が、慎重にそう告げた。髪が絡まり縺れる……。
「私か」
杏子が俯いたまま声を上げた。
「私でしょ、どう見ても」
彼女はゆっくりと顔を上げ、かさついた唇に妖艶さと自嘲を乗せて微笑むと、艶づやと伸びたチョコレート色の髪を指でくるくると巻いた。
「これが、絡まって縺れて死ぬのか……イズミ、鋏!」
「杏子様っ……」
「……いいから、持ってきてよ……死ぬよりいいでしょ?」
壁際のチェストから取り出した鋏をイズミが恐る恐る差し出すと、杏子は「ありがとう」と哀しく笑ってそれを受け取った。そして立ち上がる。
尻の下まで伸びた長い髪が耳の下あたりで一束ずつ切り落とされてゆく。ジャキ、ジャキ、という音は静寂に包まれた居間に痛々しく響き、皆の心を震わせる。オレは女性がこんな風に自らの意に背くかたちで髪を切るのを初めて見た。そして、もう二度と見たくはないと思ってしまった。
ショートカットになった杏子は最後に、ヒュウガに細部を整えてもらい、それが終わると、軽くなった頭を振ってにぱっと笑った。
「どう? いい女はどんな髪型も似合うでしょ」
彼女は切り落とした髪を潔くゴミ袋に包んで捨てた。
イズミが鋏を仕舞ってもとの位置に座ったところで里来が切り出した。
「さて、さっぱりしたとこ話を蒸し返して悪いんだが、今朝のことで皆に聞きたいことがある。まずは杏子だ。お前は椅子を蹴って食堂を出たあと地下庭園へ行ったそうだな? それで文哉と少し話して上へ戻り、厨房で朝食の片づけをしていたヒュウガに文哉の分の朝食を持っていくよう言った」
「うん、合ってるよ」
「そのあとはどうしてた?」
「みんなと鉢合わせても気まずかったから、すぐ部屋に戻ったよ」
「それは何時ごろの話だ?」
「部屋に戻った時がちょうど、十時半かな」
十時半。その頃伊織と里来とオレは一階エントランスで見立て殺人についての推理を繰り広げていた。
「ヒュウガ、お前が文哉に飯を持っていったのはいつだ」
「杏子様のお声掛けのあとすぐに準備をしてお持ちしたので、十時四十五分前後だと思うのですが……」
「そのとき文哉に異常は無かったんだな?」
「はい。前日のことのせいか、お顔の色はすぐれないようでしたが」
「それで、お前はどれくらいの間庭園にいたんだ? お前が庭園を出たあと、文哉は鍵を掛けたか?」
「私は庭園には入っていません。旦那様はお一人の時間を使用人に邪魔されるのを嫌うお方でしたので、扉の少し開いた間からお食事のトレーを差し上げ、すぐに上へ戻りました。鍵はもちろん掛けておいででしたよ。階段をのぼる途中で背後から施錠の音が聞こえました」
里来は目を伏せ、頭をひねる。
「で、次にお前が庭園に行ったときには文哉は死んでたわけか」
「はい。それから一時間ほどあとのことです。お食事のトレーを受け取りに。応答が無かったので鍵穴を覗いてみたら、旦那様が倒れていて……」
ヒュウガは顔を青くして言った。
「わかった。ということはだ、犯行は十時四十五分から十一時四十五分の間に行われたことになる。ドラマならここで、この時間の全員のアリバイを確認するところだが、今回はアリバイは無意味だ。地下庭園はこの時間、密室だったんだからな」
と、ここで里来はポケットから二連の鍵を取り出した。彼の手の中で、古風な金色が鈍く光る。
「これは地下庭園とワインセラーの鍵だ。死んだ文哉が持ってた。つまり、犯人は十時四十五分から十一時四十五分の間に、部屋には入らずに文哉を殺したことになる。トラップはそれ以前にすでに仕込まれていたんだ」
「ちょっと……待って……」
杏子が何か思いあたる様子で里来をとめた。
「あなたたちに聞いた話だと、文哉の躰に外傷は無いんでしょ? で、文哉に人工呼吸しようとした里来を無人がとめた理由が、〝文哉の口に毒物がついてる可能性があるから〟。こんなわかりやすい話はないよ。文哉は毒を飲んで死んだ。いや、知らずに飲まされて殺された」
淀みなく話す杏子はここで一呼吸置き、確信をもって〝その人物〟を見た。
「食事に毒を盛れたのは、あなただけだよ、ヒュウガ」
眼鏡の奥の瞳が細く歪められ、にわかに恨みを孕む。そうして射すくめられたヒュウガは目を大きく開き、顔を強張らせてブリキ人形のようにぎこちなく首を振った。
「ち……違います。私は、何も……」
黙っていた里来が口を開いた。
「お前がやったと思いたくはない。だが俺の残念な頭じゃあ、食事に毒を盛る以外、文哉を殺す方法を思いつけない。誰か、弁護するやつはいるか?」
「ヒュウガは絶対にやっていません!」
噛み付いたのはやはり、ヒュウガと仲の良いイズミだった。
「ヒュウガも私も、旦那様には十年来……いえ、ヒュウガに関してはもっと昔からの恩があります。それをあだで返すような真似をヒュウガがするはずありません」
「恩をあだで返すやつなんざこの世に腐るほどいる」
「だとしても、ヒュウガは違います。食事に毒を、とのお話でしたね。ヒュウガは自分の料理に誇りとプライドを持っているんです。もし、仮に、ヒュウガが旦那様を殺すにしても、丹精込めて作った料理に毒を盛るなんて――」
「落ち着け、イズミ。お前の言い分はわかる。だがお前の言うのはすべて感情論だ。弁護にならない」
厳しい里来の言葉でイズミは唇を噛んで黙った。オレはある疑問を口にする。
「あの……庭園の東屋に置かれていたトレーの食事は、コーヒーだけが空っぽで、あとはほとんど手を付けていない状態だったんです。これについてはどう思いますか? 誰か……」
杏子が深い溜息と共に答えた。
「関係ないよ。全部に毒を盛ればいい。なにかひとつでも口にすれば死ぬように」
「ってことは、庭園から引き上げてきたトレー――あれは今厨房にありますが、あれぜんぶ、まだ毒が含まれてるってことですよね?」
伊織が勢いよく俺の肩を掴んだ。
「そうか! あの食事に毒が入ってるかどうか確かめればいい。あれを海に持っていって、魚に放るんだ。もし毒なら魚は死ぬ。可哀想だけど、試す価値はある」
そうしてオレたちは海へ向かい、魚の集まりやすい桟橋で食事を海へ落とした。魚たちはたちまち群がって、それらをうまそうにばくばくと食べ……結局、死ななかった。一時間経っても、水面に銀色の腹をみせて浮かぶ魚は現れず、オレたちは、前日とうって変わって燦々と照り付ける陽射しに、汗だくになりながら館へ戻った。
食事に毒が混ざっていたという説は証拠不十分のまま保留となった。文哉殺害の真相はますますわからず、推理は迷走した。
躰の上で手が組まれていたこともあり、文哉の死は犯人の計画外の〝自殺〟ではないか、と疑う声も上がった。その推測には、文哉が東郷の死について自分自身を責めていた、という杏子の証言が根拠として加えられた。
密室の謎は解けず、殺害方法も不明。容疑者が絞られないまま、皆の間に疑惑だけが残った。
居間に深い沈黙が根ざしたころ、ヒュウガが控えめに言った。
「十四時を過ぎております。そろそろ昼食を……」
「あっ!」
とイズミが叫んだ。不意をつかれたオレはソファの上で軽く身を弾ませた。
「失礼いたしました。……旦那様から正午に発煙筒を燃やすよう言われていたのを、忘れていて……」
おろおろとするイズミに、ソファの背に突っ伏した杏子が片手を上げた。
「いーよいーよ、イズミ。近くを通る船ったって、一七〇キロ先なんでしょ? 見えるわけないさ。それに救難信号は打ち続けてる」
「申し訳ございません……」
イズミは泣きそうな顔をして、心底申し訳なさそうに深々と頭を下げる。なんだか気の毒になってしまう。十二時頃といえばちょうど、文哉が倒れている姿をヒュウガが発見したころだ。その後のごたごたに紛れて忘れてしまうのも無理はない。
「皆様、昼食はいかがなさいますか?」
ヒュウガが再び皆に問うた。オレは腹が減っていたので正直何か口にはしたかったが、食べ物に関しては一抹の不安が拭えなくなっていた。
「ねぇヒュウガ、疑うわけじゃないけどさ、まだ保留の状況だから……」
杏子が言いにくそうに言葉を濁す。そうだ。まだヒュウガの毒物混入疑惑は完全に晴れてはいない。
ヒュウガは食事を拒否されたことが少なからずショックな様子で、けれど気丈にも使用人らしく背筋を伸ばし、
「かしこまりました。では私は皆様のお食事に一切手を触れません。お食事は、すべて缶詰・レトルトなど未開封のものをイズミが運ぶというかたちでよろしいでしょうか」
「ヒュウガ……」
イズミは浮かない顔をして、ヒュウガの背に手をやった。その様子に杏子が一瞬、咎めるような視線を投げ、目を逸らす。オレは偶然その一瞬を見てしまって心中穏やかではなかった。杏子も隠してはいるが、内心相当ぴりぴりしているようだ。
オレたちはヒュウガの提案に頷き、そのあと、味気ない食卓について胃を満たした。