忘れたい。なのに忘れられない。
『*は、***が、**』
夏祭り。堤防の上。人混み。焼きそばのソースの匂い。黒髪が風に靡き、浴衣を着た彼女が振り返る。打ち上がった花火の逆光で、表情が見られない。
『*は、***が、**』
花火が消えてゆく。高く澄み渡った空。堤防の木が、緑から赤やオレンジに変わる。風が涼しい。学校の帰り道。長袖のTシャツ。隣を歩く彼女。垂れた黒髪に隠れて、表情が見えない。
『私は、***が、**』
老いた葉が散ってゆく。裸の木。飼い犬の散歩。霜柱を踏んで、堤防の下を歩く。冷たい水の音。ポケットに入れた手。赤いマフラーを巻いた彼女が、ふと立ち止まる。オレは振り向かないから、表情は見えない。
『私は、無人が、**』
つくしが顔を出す。水面に浮かぶ桃色の花びら。萌芽の香り。写生の授業。堤防に腰を下ろす。温かな陽射し。隣に座る彼女。絵に夢中なフリをして、表情は見ない。
『私は、無人が、**』
ずっとそうだ。いつだってそうだった。物心ついたころには彼女は傍にいて、あたりまえのようにオレにそう言った。
いつからだろうか、その言葉の意味を理解したのは。どれほど強い力と深い意味を持つか、わかるようになったのは。
けれどオレにとって彼女は〝親友〟だ。〝彼〟も親友だった。それ以上深い意味なんて無くていい。ずっとこのままでいたい。この関係を壊したくない。傷つくのも傷つけるのも嫌なんだ。だから、その言葉を言うな。オレの楽園を壊すな。
『私は、無人が――』
「好き」
……オレは、天井に舞う花びらと葉に呟いた。朝だ。気持ちの悪い目覚め。空調は効いているのに躰が汗ばんでいる。
コンコンコンコン。誰かが呼んでいた。オレはベッドから身を起こす。ちらりと見えた時計は午前十時。またしても朝食を食べ損ねた、と思いながら扉に近づく。
「誰ですか」
「俺だ。話がある。入れてくれ」
「里来さん」
すぐに扉を開ける。立っていた彼は、にやりと意地悪そうに笑った。
「お前、ちょろいな。簡単に殺せる」
「やめてくださいよ、そういう言い方」
「事実だ。ほら」
彼は部屋へ入ると同時にオレの腹を軽く殴った。その時ふわりと石鹸のような匂いが漂う。
「ナイフだったらお前は死んでるぞ」
「そん……あなただって人のことは言えないです」
つかつかと勝手に進み、彼はまだ乱れたままのベッドを嫌そうに一部だけ整えて腰掛けた。だったら椅子に座ればいいのに。オレが立ったまま彼を見ていると、
「まぁ、お前の部屋は安全だ」
「何を根拠に」
「それより、昨日チトセの部屋から持ち帰ったメモを見せろ」
「……気づいてたんですか」
突然、声音を真剣にした彼に、オレは驚きを隠せない。
「当たり前だ。あそこには狩りの道具が揃ってる。部屋を施錠する前に変な武器でも持ち出されたら意味がねぇからな。ほら、寄越せ」
拒否は許さない、といった顔で彼が手を出す。オレはそこで迷ってしまう。昨夜考えていたように、彼もまた容疑者なのだ。オレがしばらく黙っていると、
「なんだお前……ああ、わかった」
里来は手を引っ込めて、面倒そうに目を閉じた。
「俺を疑ってるんだろ」
そう言われて、すぐに言葉が返せない。里来はオレの目をじっと覗き込み、
「じゃあ、取引をしないか? 俺も一つネタを掴んでる。東郷殺害のトリックだ」
ポケットから二連の古い鍵を取りだす。文哉の持っていた、地下庭園の鍵とワインセラーの鍵だ。彼はそのうちの一つを指先で掴み、オレの前にかざす。
「あの事件以降鍵の掛かったままだったワインセラーを調べてきた。お前も調べたきゃ鍵を渡す。だが、十中八九お前じゃトリックに気づけないだろう。お前は東郷のことも文哉のこともほとんど知らないからな」
「その情報の信憑性は?」
「お前の俺に対する信用度次第だ。だが取引がフェアじゃないというなら、お前だってチトセのメモを改ざんすることができる。風呂場で三分待っててやるよ。改ざんする、しないは自由だ」
里来は突然立ち上がり、バスルームへ歩いていく。閉められそうな扉をオレは掴んだ。
「改ざんなんてしませんよ。出てきてください」
「遠慮するな」
「……もうっ」
彼を引っ張り出し、バスルームの扉を閉める。チトセのメモをベッドのサイドボードから取り出して、再びベッドに腰を下ろした彼に手渡す。
薄墨色の目がサーチライトのように、紙の上を順に滑ってゆく。
「オイ、これ……」
ぴたり。サーチライトは予想した通り、〝二つのもの〟の上で止まった。
「〝吹き矢〟に〝トリカブト〟……。こんなもん持ってきてやがったのか?」
「実際に持ってきていたかはまだわかりません。昨日チトセの部屋を見る限りでは、吹き矢はありませんでした。吹き矢って、長さが一メートル以上ありますよね。そんな目立つもの、見落とすはずありません。チトセが何らかの理由でそれをバスルームやベッドの下に隠していたなら別ですが。あるいは、誰かが持ち去ったか……」
里来は眉間を強く寄せた。
「もう一度チトセの部屋を調べる必要があるな」
「はい。あと、文哉さんの遺躰も」
「文哉?」
「吹き矢とトリカブトが、彼の死因かもしれないんです」
そのとき、里来の顔に明らかな緊張が走った。しばらく間を置き、考え終えた彼が言う。
「鍵穴か」
「そうです。実際に出来るのかはわかりませんが、犯人は針にトリカブトを塗り、鍵穴から吹き矢で文哉さんを刺した」
「そうか。そうすると、歌の表現とも合ってくるな。だが、文哉の躰に外傷は無かったぞ?」
オレは自分の目を指さす。里来が怪訝そうに眉をひそめる。
「眼球……見ましたか」
自信を込めた口調で言うと、はっと彼の表情が変わった。
「そうか。あいつ、鍵穴を覗いたんだ」
「そこを犯人に狙われたんです。目を刺されれば、反射的に目を閉じてしまう。だから外傷として気づかれにくい。針にはあらかじめ紐をくくっておいて、刺した直後に鍵穴から回収すれば現場には残りません」
「だからあいつは扉からすぐ近くの小道に倒れてたんだな。狩り用に精製されたトリカブトならば回りが早いだろう。眼球からすぐ脳へ回り意識を奪われたんだ。だから吐いた跡も、もがいた跡も無かった。躰の上で組まれていた手はおそらく……」
そこで彼は勢いよく回っていた舌を止め、溜息のような長い息を吐いた。肩を落とした彼の姿をオレは立ったまま見つめる。
「きっと、意識を失う直前に、彼が自分で組んだのですね」
とても殺されたとは思えない、穏やかな姿だった。まるで棺桶に入っているような。文哉は意識を失う直前、咄嗟に自分の死を悟ったのだろう。
「ああ」
と彼が呟いた。
「なるほど。ここはあいつの死に場所にふさわしい。楽園だからな」
楽園。たびたび登場するその単語の本当の意味をオレは知りたくて堪らない。
「ずっと気になってたんです。あの地下庭園が文哉さんにとっての楽園っていうのは、どういうことなんですか」
「ああ、それは……」
里来は品定めするようにじっとオレを見た。話すか否か、考えあぐねているようだった。やがて彼は視線を逸らし、一つ短い息を吐いて、
「まぁ隠しても仕方ねぇから教えてやるよ。あいつのかなりプライベートな部分だがな。文哉は、極度の人間不信と鬱症状に悩んでた。何年も前から兆候はあって……たぶん、俺があいつと出逢った十二年前にはすでにそうだったんだ。原因は仕事だ。文哉は祖父の代から続く企業をいくつか引き継いで経営していたが、どうにも社内に味方がいないんだと言っていた」
「鬱だなんて……全然そんな風には見えませんでした」
オレがそう零すと里来は頷いた。
「そうだ。この島にいる間だけは、文哉は普通だ。ここはあいつが嫌う日常とは完全に分断されているからな。お前は地下庭園があいつの楽園だと言ったが、それだけじゃない。文哉はこの島全体を楽園にするつもりだった。そのための準備段階の一つとして、お前たちがここにいる」
「オレたち?」
「正確に言えば、〝三人四組の大学生たち〟だ。文哉はこの島を、学生向けのリゾート地に変えるつもりだった。島の東側の湖と新館はそのためのものだ。お前たちはリサーチ対象だった。島をより良くするための」
「でもそれって、楽園と関係無いんじゃ……」
「文哉が意味深なこと言ってただろ?『君もいつかわかる。わからなくて済む方がいいんだが』みてぇな。あれはな、社会の厳しさのことを言ってんだ。お前は学生だろう。授業もそこそこに仲間と遊んだりバイトしたり……それで楽しくて結構だ。だが社会にでると、辛いことが多い。足を引っ張るやつも陥れようとするやつもいる。そんで、そいつらのせいで文哉みてぇになるやつがごろごろいる」
里来は文哉の姿を思い浮かべている様子だった。
「要するに、すさんじまうんだ、誰もが。文哉はそんな社会に嫌気がさしていた。だからこの島で、社会に出ていない大学生だけを相手にして暮らせれば……ってな」
「それで、この島は文哉さんの楽園になるはずだったんですね……」
ようやく合点がいった。オレはどうにも空しいような気分なって、脱力しかけた躰を椅子に座らせた。
志半ばで亡くなった友人を想い、やりきれないのは里来の方だろう。しかし彼は、あくまでたんたんと事実を語り、語り終えた後も表情を変えずにいる。
「そういうこった」
と唐突に里来は言った。
「次は俺がネタばらしする番だ。東郷の件、昨日の朝は杏子のせいで話が流れちまったが、あれは十中八九、殺人だ」
里来は組んでいた脚を組み直した。
「まず、煙草とライターだが、あれは犯人が事前に用意したものだ。ってことで、犯人はおのずと絞れてくる。この島に来る以前から東郷の煙草の銘柄を知っていた人物だ。つまり、お前と伊織は犯人じゃねぇ」
そう言って不敵に口角を上げ、里来は続ける。
「な。だからお前の部屋は安全なんだ」
それは先ほど里来がオレの部屋へ無防備に入ってきたときに言った言葉だった。なるほど、その根拠とは、〝お前は犯人じゃない〟か。
「それで、善良なオレに里来さんはどんな推理を披露してくれるんですか」
「それは、」
彼は立ち上がって得意げにオレを見下ろした。その手の中で古い鍵がキィンと鳴る。
「現場で説明してやるよ」