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「おはよー、無人。よく眠れた?」

 一階エントランスへ続く階段の前に、ウェットスーツの上半身を寛げた恰好で杏子が立っていた。

「杏子さん、おはようございます。これから潜るんですか」

「まあね。電話線さ、切れてたとこしっかり繋いだのにどうしても復活しなくって。一回、海底ケーブルの方を見てこようと思うんだ」

「大丈夫なんですか」

「へーきへーき。島に近い、浅めの部分だけね。イズミが手伝ってくれるから、ここで待ってるんだ」

 長い廊下の西側から杏子と同じ格好をしたイズミが駆けてきた。見慣れないウェットスーツ姿だが、すらりとしたその体型によく似合っている。

「すみません。お待たせいたしました、杏子様」

「よっし、行こうか。一応……二時間で帰って来なかったら探しに来て。桟橋から海岸沿いに北へ五〇〇メートルくらい行ったあたりに潜ってるから」

 里来が腕時計を確認して答える。

「ああ、わかった。二時間後っていうと、十二時半だな。……忘れんなよ」

 最後の忘れるな、というのはオレへの言葉らしい。里来はそれだけ言って踵を返すと、ワインセラーの扉に鍵を差し込む。杏子は「じゃあね」と言ってイズミを連れ、エントランスへのぼっていった。

 オレは里来のあとに続き、東郷の死んだ夜以降初めてワインセラーの扉をくぐる。まだ、中は焦げ臭さと酒の匂いでむわっとしていた。それでも常時空調が効いているだけあって、あのときよりは随分マシだ。途端に蘇りそうになる思い出したくない光景を、頭を振って散らす。

「大丈夫か?」

「はい、まったく……とまではいきませんが」

 階段を下りると、現場が見える。正面の奥の床がどす黒く焦げつき、割れたボトルが散らばって、小型の脚立も倒れている。それらの上部にある吊戸棚は開きっぱなしだった。

 里来はワインの棚に近づき、手前側へ斜めに向いて並ぶボトルのラベルを撫でた。

「まず、だ。このセラーの中に東郷の探していたワインは無い。割れたボトルにも、残ったボトルにも」

「誰かが飲んだんですか」

「飲めたとしたら、ここの鍵を持ってた文哉だが、あいつが東郷の死んだ直後から昨日の朝までにもう一度ここに来て酒を取り出し、地下庭園で飲んだとは考えにくい」

「そうですね」

「ちなみに俺はここへは、昨日文哉の遺躰のポケットから鍵を取りだして以降、さっきお前の部屋へ行く前に一回入ったきりだ」

 その言葉の真否については確かめようがないので、こちらは曖昧に頷くにとどめる。里来は気にした様子も無い。

「そこで、こう推理する。犯人は、あらかじめ例の白ワインを棚から抜き取り、煙草とライターを目につくところへ置いておいた。火曜の夜、白ワインを取りに来た東郷は煙草とライターを見つける。そのあと東郷は煙草を吸いながらあちこち白ワインを探すわけだ。だが当然ながら白ワインは見つからない。そしてついに、吊戸棚に目をつける」

 里来は吊戸棚の方へ歩いてゆき、倒れた小型の脚立を掴んで、吊戸棚の下に設置した。

「ところで、東郷の身長は一七五センチ前後だと俺はみる。お前もそれぐらいだろう? ちょっとこの上に立ってみろ」

 言われるがまま、オレは小型の脚立の一番上に立った。目線がちょうど、吊戸棚の下辺ぐらいだ。

「いったん扉を閉めろ。それで、開けようとするとどうなる?」

 分厚めの扉を片手で閉める。扉はもとの位置に吸い付くように、ばたんと閉じた。そういえばこの吊戸棚の扉は密閉式だと里来が言っていた。それを再び開けようとするとどうなるというのだ? 閉めたときと同じ、片手で扉を引く。少し固い。冷蔵庫の扉のような感覚だ。

「お……っと」

 足場が不安定でよろけ、思わずもう一方の手で吊戸棚の下を掴んだ。そしてそのまま躰を支え、固めの扉を引き開けた。背後の里来を振り返る。

「開きましたけど……これがなんだっていうんです?」

 里来はにやりと笑い、

「今、両手が塞がっただろ」

「はい、そうですね。支えが無いと力が入りにくくて」

「もしお前が煙草を吸ってたら、今の場面でどうしてた?」

「うーん……手に持ってると邪魔なので……口にくわえますかね」

「それだ」

 里来が手で「退け」と合図するのでオレは大人しく脚立から降りた。代わりに里来が上り、俺が開けた扉を閉める。

「いいか、こういうことだ」

 東郷の身長を忠実に再現するためか、里来は目一杯背伸びをして吊戸棚に向き合った。その後姿がいつもの彼とのギャップで随分可愛く見えて、オレはこっそり笑ってしまう。

「東郷は吊戸棚の扉を開けようとしたが、狭い脚立の上で煙草を片手に持ったままでは無理だった。そこであいつは煙草を口にくわえ、開いた方の手でどこかを掴み躰を支えながら扉を開けた。すると、あらかじめ中にぶちまけられていた小麦粉が、外から入った空気に押し出されて飛び出す。そして、東郷のくわえた煙草に引火して爆発」

 里来はオレを一度振り返り、続けた。

「驚いた東郷はバランスを崩して脚立から落ち、その際に脚立が倒れる。東郷は火のついたまま暴れ、腕などが棚のボトルに当たって落ち、中身が床に零れる。零れたワインにさらに引火し、燃え広がり、ついに東郷は力尽きて倒れる」

 里来は脚立から落ちる所から身振り手振りで東郷の動きを再現し、最後に倒れるフリをしたあと、オレに向き直った。

「推理したのはここまでだ。まだ、誰がやったかまではわからねぇ。東郷はあの夜、自分からワインを飲みたいと言い出したわけだし、ワインセラーへもイズミの代わりにって、自分で言い出したんだ」

「そうですね。しかもこのトリックは、喫煙者の東郷さん相手にしか発動しない。仮にあの夜ワインセラーに来ていたのがイズミだったら、小麦粉を頭から被るだけなので、誰かの悪戯として片付けられてしまいます」

 これが本当なら、巧妙に仕掛けられたトリックだと思った。考えた人物は、相当頭がいい。

 他におかしなところは無いか、オレはもう一度ワインセラーの内部を見渡した。壁沿いにぎっしりと高く並んだ棚。その中に敷き詰められた黒いボトル。片開きの吊戸棚。小麦粉と引き換えに消えた除湿剤……。

 ぐぅぅ、と腹が鳴った。オレは咄嗟に胃のあたりを押さえる。そういえば朝食をとっていない。こんなときでも腹は減るものか、と自分の食欲を残念に思いつつ、ぎこちなく里来を盗み見る。目が合った! 何か言われるかと身構える。里来は半開きにした口から、

「てめぇ……腹減ってんならそう言え」

「……はい」

「休憩だ。食堂行くぞ。お前の分の朝飯が置いたままだ。クソ不味い缶詰パンだがな」

 里来は怒るでもなくそう言って、ワインセラーの階段をのぼり始める。もっと、緊張感が無いだとか言われると思っていたオレは、ほっとしたような拍子抜けしたような複雑な気持ちで彼のあとを追った。

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