まだ皆が寝静まる午前二時半ごろ、オレはほとんど追い出されるかたちで里来の部屋を出て、自室へ戻った。朝食の時間はまだ遠い。中途半端に起こされて眠いので、このままもう一度眠りにつくことにした。
目覚めたら全部夢だった……なんてことにはならないだろうか。不毛な期待を抱きながら、眠気にまかせて瞼を閉じた。
アラームが鳴る。目を瞑ったままサイドボードに手を伸ばし、携帯を掴む。ディスプレイに映し出された時刻は午前七時四十五分。朝食の十五分前。
「忘れてた……」
昨日、一昨日、と二日連続寝過ごして朝食を食べ損ねたのを反省し、寝る前に携帯のアラームを掛けていたのだった。ベッドの上で躰を伸ばし、起き上がる。里来にベッドから蹴落とされた痛みが今頃背中のあたりにやってきた。けれど三日連続遅刻するわけにもいかないので、早々にベッドを下りて身支度をする。
廊下に出ると、一瞬、何かの匂いがした。変な臭いではない。どこかで嗅いだことのある、どちらかといえば好意的な匂い。その正体のわからぬまま、オレは地下一階の食堂を目指した。
「おはよう、無人」
「ああ、おはよう、伊織」
掛け時計の時刻はちょうど午前八時。テーブルについていたのは伊織だけだった。
まもなくヒュウガが給仕用の扉から一礼して入ってきて、そのすぐあとに台車を押したイズミが続く。乗っているのはパンの缶詰にミックスビーンズの缶詰、そして缶コーヒーに、レトルトパウチされたパイナップルだった。全員の席にそれらが配られる。
オレと伊織は、いつも通り扉の横に立とうとするイズミとヒュウガに戻って食事をとるよう指示し(二人は使用人のポリシーゆえか、なかなか厨房へ戻ろうとしなかったのだが)、里来と杏子を待つことにした。
それから十分ほど伊織と他愛ない話をし、そろそろ食べてしまおうかと思っていたところで里来がやってきた。彼が傍を通った途端、ふわりと香る石鹸の匂い。見ると、いつもさらさらとしていた黒髪は半乾きで毛束になっている。
「おはようございます、里来さん。朝シャンですか?」
オレが声を掛けると里来はこちらを鋭く睨んだ。彼の部屋でオレが寝入ったことをよほど根に持っているらしい。里来が席について早々に缶詰を開け始めたので、オレと伊織も食べ始めることにした。
食事を終えて、話題は昨夜里来と話した、幸一とチトセのことに移った。チトセが海底ケーブルを切ったかもしれない可能性についてオレが説明すると、伊織は最初驚いた顔をして、そのあとで納得したように頷いた。
「僕たちは、あの時点では誰も、連続殺人が始まっているなんて思っていなかった。だからみんな油断してたし、他人の行動にも注意を払わなかったよね」
「ああ」
「例えばさ、こういうことも考えられる。チトセが幸一を誤射したあと通報を恐れて海底ケーブルを切る、この一連の流れこそが犯人の思惑だったんだ。そして犯人はチトセを『匿ってあげる』などと言って騙し、ほとぼりが冷めたら出す約束で彼女を冷凍室へ入れた」
「それでそのまま……って?」
「そうさ。幸一を発見してからベッドに運ぶまでのごたごたの中で、誰がどこにいたか、どこへ行って、いつ帰ってきたか、君は把握してる?」
「わかるわけねぇよ。あのときは気が動転して……」
オレの右隣で里来も首を横に振った。
「ということは、あのとき犯人がチトセを冷凍室へ隠すことは、難しくなかったんだ。厨房は、地下二階へ続く階段とは食堂を挟ん――」
コンコンコン。伊織の声をノックの音が遮った。里来の返事のすぐあとに扉が開かれ、入ってきたヒュウガは俺たちを見るなり早口で捲し立てる。
「お話し中に失礼します。気になることがありまして。すぐに地下二階へお越しください」
彼女の様子は焦って見える。けれど、決定的に悪いことが起きたような口振りではない。オレたちはとにかく立ち上がり、足早に歩くヒュウガを追った。
地下二階へ続く階段を降りきったあたりから、何やら変わった匂いがし始めた。この匂いはすぐに、食堂に行く前自室を出た瞬間に感じた匂いと繋がった。だがあのときより濃く香ってきている気がする。
階段を降りた場所からすぐ北の巨大階段前ではイズミが掃除機を持って立っていた。コードは廊下のコンセントに刺さっている。どうやら絨毯に掃除機掛けをする途中らしい。イズミはオレたちの姿をみとめると、
「お呼び立てして申し訳ございません。既にお気づきかとは思いますが、この〝におい〟の件でして」
「なんのにおいだ」
里来が鼻をひくつかせながら廊下を見回す。イズミは首を振った。
「わかりません。しかし、どこか嗅ぎ覚えのあるような気も……」
「廊下には何も無かったんだな?」
「はい。花……の匂いのようにも感じられましたので地下庭園からかと思い巨大階段を下りてもみたのですが、どうやら違うようでした」
里来は少し頭をひねり、やがて
「酸素濃度調整システムだ」
オレははっと思い出した。初日に地下庭園に向かう巨大階段の上で、里来とそんな話をした。確か、各フロアの最適量酸素が管を通じてフロア全体を循環してる、だとか。
「ってことは遺躰のにおいか? 東郷と幸一の部屋は切ってあるはずだが」
伊織が突然何かに気づいたように目をかっと開いた。
「わかった! この匂い!」
全員が伊織を振り向く。伊織の視線は廊下を北側へ流れ、ある部屋の扉へ。
「杏子さんの香水です」
嫌な予感がした。里来がすぐさま走り出し、杏子の部屋の扉を叩く。
「オイ、起きてるか杏子! クソ眼鏡!」
ノブをがちゃがちゃ動かすも、扉は開かないようだ。イズミが掃除機を捨て、上階へ駆け上がっていく。オレと伊織は顔を見合わせ、里来のもとへ駆け寄った。
「突き破りましょう! せーのっ」
三人で一斉に扉へ体当たりをする。呼吸を合わせて何度も。だがそう簡単に開くものじゃない。
「退いてください」
振り返るとヒュウガが掃除機を高く掲げていた。そのままヘッド部分を力強くノブへ振り下ろす。
ガキィン、といって弾け飛んだのはヘッドの方だった。ヒュウガは歯噛みし、「クソッ」と悪態をついて黒靴のヒールでノブを蹴り上げる。
「お待たせしました!」
戻ってきたイズミは斧とバールを手にしていた。地下庭園の扉を破ったときと同じものだ。里来が斧の刃をかんぬきのあたりに叩き込む。そうしてできた隙間からオレがバールを差し込み、渾身の力で扉を歪ませ、半分ほどかんぬきが抜けたところで
「せーのっ」
バンッ。オレと伊織と里来は扉を破る勢いのまま部屋へ飛び込んだ。瞬間、強烈に鼻をつく香水のにおい。頭が痛くなるほど濃く充満している。
まるで海の底のような部屋だ。青色の豆電球の下、同じく青色の壁紙には海藻や魚が描かれており、それらに調和するピンクの貝殻型のベッドが左奥に見える。こんもりと盛り上がったシーツの下にはおそらく杏子が寝ているのだろう。
里来は苛立たしげに肩を怒らせてそれに近づいた。
「起きろてめぇ。なんだこのにおいは」
ピンク色のシーツを勢いよく捲り上げ、彼は絶句する。オレと伊織は彼が見たものを察し、足早に歩み寄る。
蒼白な顔で目を閉じて、杏子が横たわっていた。一目で死んでいるとわかった。スタイルのいい長い首には、細い紐で締められたような痣。ネグリジェから見える首元には、酷く掻き毟った爪痕。
オレは顔を上げて部屋を見回す。ベッドの向かいの姿見が粉々に割れていた。その下には果たして、割れた香水の瓶が落ちている。犯人と揉み合った際に杏子が投げたのだろうか。ちょうどそんな位置だ。ヒュウガが恐々としてその傍に近寄る。そこでようやく部屋に蛍光灯が灯る。扉近くにいたイズミがスイッチを押したのだった。
蛍光灯の下で見ると杏子はますます蒼白く、全体が色を失って見える。対照的に赤い首元の引っ掻き傷が痛々しい。
里来が彼女の首に指を添え、脈を測って深く息を吐いた。
「死んでるな……」
室内は重い雰囲気に包まれる。背後で音がした。振り向くと、イズミとヒュウガがしゃがみこみ、割れた鏡と瓶の破片を拾い集めている。その姿はさながら火葬後の骨上げのようで、オレはいっそう心を揺すられた。
「とりあえず……いったん引き揚げる」
里来は小さくそう呟いて踵を返した。オレは伊織に「行こう」と促されて杏子から目を離す。扉の方を向くと、破片をハンカチに包んだヒュウガとイズミが出ていくところだった。
「早くしろ」
外から里来が呼ぶ。もう少しこの部屋を調べたかったが、今は彼に従うことにした。
扉を出るとき、照明スイッチの下に見えたキーフックには、この部屋の二本の鍵がリングに通った状態で掛けられていた。つまりは密室。またしてもオレたちの前に謎が立ちはだかる。
部屋を出ても漂う香水の匂いに杏子の面影を感じつつ、オレは皆のあとについて、通夜の参列者のように歩いた。