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 声が、聴こえる。柔らかな旋律に乗せて紡がれる歌。

 ――少女の冷えたマッチが売れねども

 オレは鍵の壊れたアーチ形の扉を引き開ける。

 ――親指姫が土竜の穴に埋もれども

 白一色になる視界。それが晴れて、虹色に輝く春の世界が現れる。

 ――シンデレラが灰で真黒に染まれども

 枝を広げた大樹、色とりどりの花、薔薇のトンネル、動物の置物。

 ――眠り姫がいばらに指を刺されども

 土色の小道を進み、蔓薔薇のトンネルをくぐる。

 ――ラプンツェルの髪が絡まり縺れども

 蔓の合間から洩れ入る陽が、小道の先をまだらに彩る。

 ――人魚姫が海の真白な泡となれども

「ナイト」

 里来が呼ぶ。オレは振り返る。光の零れる蔓薔薇のトンネルを彼が後ろから駆けてくる。

 ――白雪姫が毒の林檎を齧れども

「なぁ、お前……」

「行きましょう」

 ――赤ずきんが狼に喰われども

 優しく微笑んで、片手を里来に差し出す。彼は躊躇いがちにそっとオレの手を取る。

 ――赤い靴の少女が踊り狂えども

 彼の手を引いてトンネルを進む。薔薇の良い香り。心の澄むような、穏やかな世界。

 ――ここは楽園

「ナイト、何考えてる?」

 里来が繋いだ手を引く。オレは彼の手をぎゅっと握りしめる。蔓薔薇のトンネルを抜ける。白い東屋が見える。

 ――その上で

「残された魔女は嗤って目をとじる」

 ここは地下庭園の中央。姫たちが愛した楽園の、最も美しく清らかな場所。独りぼっちで残された最後の魔女が、目を閉じる場所。

「そうか、お前が……みんなを殺した魔女……」

 東屋の中央に佇む人物。ドーム型のガラス屋根に施された装飾越しに、春の陽射しがきらり、きらりと〝彼〟の金髪を照らす。

 埃一つ、皺一つ無い純黒の執事服を長身に纏ったその人物は、真っ直ぐに背筋を伸ばし、南国の海を流し込んだような瞳で微笑む。

「こんにちは、無人様、里来様」

「イズミ……」

 ことり、と首が傾げられ、彼の短い金髪が頬の横で揺れた。

「てめぇ、どういうことだ!」

 里来がオレの手を振り払い、前に歩み出る。

「待って、里来さん」

「離せナイト! こいつが犯人なんだろ!」

 イズミは高みからオレたちを見下ろしてくすくすと笑う。とても無邪気に。まるで楽園に住む天使のような顔をして。

「そんな怖い顔しないでください、里来様。怒ったってもう、誰も帰って来ませんでしょう?」

 彼は上品な動作でこちらへ歩み出て、石段を一つ下り、その上に腰を下ろした。オレは彼に飛びかかろうとする里来を背に隠し、彼と対峙する。

「本当にお前が犯人なのか、イズミ?」

「はい」

「七人もの人間を歌に見立てて殺したのか?」

「そうですよ」

 イズミの表情は穏やかだった。焦りも哀しみも怒りも感じられない。ただ彼は、この楽園を楽しむようにゆったりと寛いでいた。

 オレの背後で里来が暴れるのをやめ、静かに憎しみの籠った声で問う。

「何故そんなことをした」

「必要だったからです。私の〝新たな人生〟のために」

「はあ?」

「残念です、里来様。あなたのことも殺せるはずだったのに。計画が狂いました。無人様のせいで」

 イズミの目がオレを冷たく見据える。ぞくりと悪寒のするような色。深海に潜む魔女が、彼の瞳の奥からオレを射抜く。

「無人様、魔女はあなただったんですよ? あなたが全ての殺人の罪を被り、ここで死ぬはずだったんです」

「何言ってる。冗談じゃない」

「そうして私――ああ、もうこの言葉遣いは疲れたな。僕は、本土に帰って生まれ変わる予定だったのに……」

 はぁ、と溜息をついてイズミは悩ましげに頬杖をつく。里来は拳を震わせ、噛み付くような勢いで吐き捨てた。

「このクソ野郎! ぜってーブタ箱にぶち込んでやる!」

「うるさいなぁ、里来様は」

 冷ややかな目で里来を一瞥し、イズミは若草色の芝生を見つめながら言う。

「根暗でいつもは本ばっか読んでるくせに」

「なんだと」

「本当のことでしょう? ねぇ、どうしてそんなに怒ってるの? そんなに大事だった? 旦那様たちのこと。……そうは見えなかったけど」

 里来は口籠って眉を寄せる。オレは彼とイズミの間に立ちはだかった。里来の弱みをつつかせたくない。

「やめろよ、そうやって挑発するの。大事だったに決まってるだろ」

「どうだろうね?」

「お前は……里来さんのことなんにも知らないくせに」

 ぷふっ、とイズミは大げさに吹き出した。大輪の花が綻ぶように豊かな笑みの中、蒼い瞳だけが蔑むようにオレを見る。

「なにそれ。ヒーロー気取りの台詞って、滑稽だよ」

「魔女よりマシだ」

「あは、それもそうか……」

 イズミは興醒めした様子で立ち上がり、踵を返して石段を上る。その背に里来が問いかける。

「なぁ、イズミ。お前は大事じゃなかったのか、ヒュウガのこと」

 東屋の中央で黒靴の音が止まる。執事服の長い裾が慣性でひらりと舞う。

「俺には大事そうに見えた。お前はヒュウガを……好きだったんだろ?」

 里来の追及にイズミは答えない。オレは自分の鈍さを呪う。そして無言の肯定による事実を噛み締める。そうか、二人の関係はヒュウガの一方的な好意ではなく、二人は互いに……。

 静寂に包まれた庭園に黒靴の音が響いてイズミが振り向く。その表情はさっきまでと打って変わって苦しげで、切なくて、見ていると胸がきゅうっと痛むほどの哀しみで満ちていた。

 どうしてそんな顔をするのだろう。オレにはわからない。わかりたくもない。そんなつらそうな顔するくらいなら、どうして殺したんだ。これではまるで彼が――

「悔やんでるのか?」

 オレは気づけばそう問うていた。イズミは震える口角を無理に引き上げる。

「さあ?」

 オレはまた問う。彼の心に。

「教えてくれ、イズミ。本当のお前を」

 知りたい。この惨劇を招いた原因を。彼の想いを。すべての真実を!

 長く、深い息を吐きながらイズミは、自分自身と向き合うように瞳を閉ざした。瞼の隙間から、透明な雫がぽろ、と一粒こぼれ出る。それが目元を伝い、頬を伝い、顎先まで伝って消えるころ、イズミはようやく瞼を上げた。

 歪んだ眉の下、膜を張った瞳が細められ、唇が小さくひらく。

「そろそろ、タネ明かしの時間かな……」

 イズミは庭園を眺めながら、彼の真実を語り始める。

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