僕の父は、クルーズ客船の船長だった。何十人もの乗組員の上に立ち巨大な船を操る父は僕の自慢だった。
だがある日、父の乗る船は太平洋に沈んだ。千人規模の巨大な客船。本土のY港を出発し、九州のN港経由で東南アジア諸国を数か所巡るという、楽しく快適な旅になるはずだった。
原因は座礁。レーダーが捉え損ねた暗礁に船が乗り上げたのだった。乗客の約半数が命を落とし、糾弾されるべき船長である父もまた、海の藻屑となった。
その船には僕と母も乗っていた。座礁後、沈みゆく船内で、僕は母に手を引かれ救命ボートへ走った。あちこちで巻き起こった爆発により発生した火災が、逃げ惑う人々を襲い混乱させた。僕と母は炎のせいでボートまで辿り着けず、熱さに耐えかね救命胴衣のみで海へ飛び込んだ。真っ暗な夜の海に呑まれ、僕はそこで意識を失った。
次に気づいたとき、僕はどこかの浜辺で誰かに抱きしめられていた。東の水平線がほんのり黄色く染まった早朝だった。〝誰か〟は、薄暗い景色の中で目を輝かせて呟いた。
「人魚だ……」
それがヒュウガとの出逢い。僕が十歳のときのことだった。
◆
僕が流れ着いたのは、資産家文哉・アッカーソンの所有する私有島、灰島。ヒュウガは幼い頃から母親と共にアッカーソン家に住み込む使用人見習いだった。僕はその島の地下の館に招かれて、手厚く看護を受けた。
数日経ち、客船の沈没と僕の素性を知った文哉・アッカーソンが僕の客室を訪ねた。
「君は先日太平洋に沈んだ客船の船長、ノーブル氏の息子だね?」
僕が頷くと、文哉は神妙な面持ちで僕を見た。
「いいかい、よく聞いてくれ。君の両親は亡くなった。君も亡くなったことにするんだ」
「どうして」
「そうしないと君の命が危険だからだよ。あの船には多くの人が乗っていた。調べてみたところ、その中には裏の世界の人間もいてね……」
「裏の世界の……?」
「そうだな……やくざみたいな連中と言うべきか……つまりは〝マフィア〟だ」
文哉は言った。そのマフィアとかいう奴らが、船の事故で幹部を殺された腹いせに、船長の息子である僕の命を狙う可能性があると。彼らは人殺しなど厭わず、また、法に触れずに僕を殺すこともできるのだ、と。
「君の名前は今日からイズミ・ノーランだ。私の家に住むといい。ちょうど君と同じくらいの少女がいるんだ」
僕は自分の命を守るためノーブルの性を捨て、イズミ・ノーランとして生まれ変わった。
本土に戻ってからのアッカーソン家での日々は平穏だった。僕はヒュウガと同じ小学校に通うことになった。そして家に帰ってからは、せめてもの恩返しをと思い、ヒュウガと共に使用人見習いとして他の使用人たちの手伝いをした。
月日は流れ、僕は高校を卒業し、アッカーソン家で正規の使用人として働くこととなった。文哉は大学への進学を勧めてくれたが、僕は断った。ヒュウガと共に、世話になった文哉のために働きたいと思ったのだった。
僕は、この頃にはすでにヒュウガに恋心を抱いていた。同じく僕を好いていたヒュウガと付き合い始めたのは、高校を卒業してすぐのことだった。
二人とも幼い頃から見習いとしてアッカーソン家に仕えていただけあって、文哉の信頼は厚かった。ヒュウガがシェフ、僕が執事長に抜擢されるのに、時間は掛からなかった。僕たちは誠心誠意アッカーソン家に尽くし、その一方で、充実した私生活を送っていた。
しかし、そんな日々は、僕が〝あること〟を知ったことで崩れ始めた。僕はそのことの真相を確かめるため、ある夜文哉に詰め寄った。
「旦那様、私の戸籍が無いというのは本当なのですか」
文哉は苦渋に満ちた顔で頷いた。
「そうだ。君を迎え入れた九年前、私は万が一君の素性が洩れることを恐れ、君の戸籍を新しく取得しなかった」
「そんな!」
「裏の世界の情報網は馬鹿に出来ない。そうするしかなかったんだ。私立とはいえ君を普通に学校に通わせるだけでも随分と神経を使わなければならなかった。色々な方面に根回しし、金を握らせて」
すまない、と言って文哉は頭を下げた。僕はそれ以上、何も言えなかった。
戸籍が無いことを知ったからといって生活はなんら変わりない。公的援助が受けられない部分は文哉が補填してくれたし、彼は僕の生涯に渡る安定した生活を約束してくれた。望めば彼の経営する企業で彼の補佐として働くことだってできたのだ。文哉は本当によくしてくれた。
だが、問題は金や地位などではなかった。選挙権が無いのもパスポートが取れないのもどうでもいい。僕が最も恐れていたのは、戸籍が無いせいでヒュウガと婚姻関係を結べないことだった。
「ごめん、ヒュウガ。別れよう。他に好きな人ができたんだ」
僕はヒュウガを僕から解放することを決めた。母親を早くに病で亡くし天涯孤独である彼女に、新たな家族を与えられない僕が求婚することは考えられなかった。戸籍のことを隠したまま、僕はヒュウガを振った。
けれど未練がましい僕は彼女の傍を離れることができなかった。職を変えることも住む場所を変えることもできず、僕は彼女の〝親友〟に戻ろうとした。彼女が僕を見る目が、もはや親友のそれではないことに、気づいていながら……。
それから半年ほど過ぎ、僕はある情報を手に入れた。それは街に出たときに偶然耳にしたもので、僕が新たな自分に生まれ変わる唯一の方法でもあった。
僕はそれを文哉に相談した。彼なら喜んで了承してくれると思ったのだが、予想に反して彼の態度は否定的だった。
「旦那様、私は戸籍を買おうと思うのです。そうすれば――」
「馬鹿なことを言うんじゃない。それこそ私が九年前に断念したことだ」
「裏の人間との取引が危険なことは承知の上です。下手をすれば私の素性が彼らに洩れることもわかっています。けれど、戸籍があればヒュウガと婚姻できるのです」
「君はまさか戸籍を気にしてヒュウガを振ったのか? 戸籍など彼女は求めていない。君がいればいいんだ。婚姻せずとも、夫婦のように暮らすことはできる。子どもだって望める」
「それでは駄目なのです。僕はヒュウガに家族を与えたい。僕たちは誰にも後ろ指をさされない、真っ当な家族になりたいのです」
文哉は絶対に首を縦には振らなかった。
「君が戸籍を裏ルートで購入する、その行為がどれだけの人間を危険に巻き込むか、よく考えた方がいい。君自身だけじゃない。もはやヒュウガも私も私の友人たちも、君の出生を知りながら隠蔽していたという件では共犯者なんだ。下手をうって裏の連中にバレれば、必ず皆が報復を受ける」
それでも僕は絶対に上手くやるからと言って文哉に迫った。何度も何度も頭を下げた。だが、彼を説得することはついにできなかった。
「この話を聞いてしまった以上、私は君を野放しにはできなくなった。申し訳ないが、君には監視をつけさせてもらうよ。君が戸籍の購入を諦めるまで」
その処置は、文哉が僕やヒュウガや偶然関わってしまった彼の友人たちを守るためには仕方のないものだったと思う。けれど僕はその瞬間から心のどこかで文哉を憎み始めていたのだ。
それからは出掛けるたびに誰かにつけられているような気がしてならなかった。電話も、メールも、インターネットの閲覧履歴も全部誰かに見られている気がした。言い知れぬストレスが僕の中で徐々に膨らんでいった。
◆
ついにそうなったのは今年の五月。パンク寸前まで肥大していた僕の精神的負荷は、その形を殺人という明確な衝動に変えた。邪魔をするなら文哉もその友人たちも葬ってしまえばいい! 僕は完全犯罪の方法を思案し始めた。だがそのときにはまだ、ヒュウガを殺そうなどとは微塵も思っていなかった。僕は、〝彼女のために〟文哉たちを殺そうとしていたのだから。
古今東西、あらゆる推理小説(ミステリ)を読んだ。犯罪のトリックを見出せそうなものはドラマでも映画でも漫画でもなんでも片っ端から目を通した。
トリックを考えるのは楽しかった。舞台は絶海の孤島、灰島。歌に見立てて次々と起こる殺人。文句なしの完全犯罪。ちょうど文哉が学生向けのツアーを企画したこともあり、人数に不足は無い。あとは、毎年あの島でシェフを務めるヒュウガの代わりに別の料理人を連れていくよう、執事長である自分が手を回せばよい。
僕はヒュウガを呼び出してその話をした。
毎年同じ料理人では面白味が無いから、と僕が言うとヒュウガは、それは建前だと噛み付いた。
「イズミは私とあの島にいたくないだけだろ。昔を思い出すから」
「そんなつもりじゃない」
「私を疎ましがってるじゃないか」
「誤解だよ、ヒュウガ」
「いいかげん、本当のこと言えってイズミ。いつまで私に嘘つくんだよ……」
ヒュウガは僕の胸倉を掴み、涙交じりの声で言った。
「あんな振り方ないだろう? 私はあんたがイズミ・ノーブルだろうがノーランだろうが、戸籍が無かろうがッ……」
あんたの隠してること全部知って、それでもあんたが好きなのに……。ヒュウガは嗚咽を堪えながら苦しげにそう絞り出した。
ヒュウガは知っていた。文哉が、ヒュウガにすべてを告げていたのだった。僕は彼に激しく殺意が湧いた。それと同時に、ヒュウガにひどく同情した。僕を好きになってしまった彼女への、深い同情だった。
結局僕は、気の毒で愛しい大切な彼女を、不本意ながら殺戮の島に同行させることとなった。
ちょうどこの話を通いメイドのチトセが立ち聞きしてしまったことを、僕は数日後に知った。チトセ本人が律儀にそれを詫びに来たのだ。聞くつもりは無かったのですが、と。彼女は、僕とヒュウガのことを大層心配してくれている様子だった。秘密を知ってしまったチトセもまた同行メンバー確定となった。
◆
そしてその日はきた。灰島滞在二週目の日曜日。八月十日。
天候、周辺を通る船の航路を考えて最適の週。
僕はヒュウガを生かした上で彼女にすらバレない完全犯罪をついに思いつかぬまま、計画を開始した。