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【第二章】玉、将軍の閨へ(一)

  八代将軍吉宗が、身分を偽って城下を歩いていたというのは、もちろん物語でしかない。しかし家光が身分を隠して城下を歩いていたというのは、どうやら史実のようである。

「だからあれほど申したはずです! 将軍が一人夜歩きなどと! いつ何時何者に命を狙われるやもしれぬと! 上様がいつまでたっても戻らぬので、伊賀者たちを手配いたしましたが、もう少し遅かったらどうなっていたことか……」

 大奥御座の間にて、春日局は将軍家光相手に怒りを爆発させた。

「襲ってきた者たちは、肥前島原藩の者と申したな。島原の乱の責任を問われ、島原藩は御家断絶となり、浪人となってわしの命を狙ったのであろう」

 さすがの将軍も、苦虫をかみつぶしたような顔でいった。そこへお万がはいってきた。

「お万どうじゃ? 玉の傷の具合は?」

「はい命の危険はなく、一月、二月もすれば傷もなおると匙は申しておりました」

「うむどうやらあの者は、最後には浪人山中新三郎が余であると気付いた様子であったな」

「玉がずいぶんと無礼を働いたとか。どうかお許しください」

 と万は平伏していった。

「余をかばって狙撃されたのじゃ。そなたが謝ることなど一つもない」

 将軍は立ち上がり、その場を後にする。将軍の意を察して、小姓たちもまた立ち去った。春日局と万だけが残される。春日局は皺にまみれた顔を、いつになく険しくした。

「これはあくまで内々の話ではあるが、上様におかれてはもしかなうならば、お玉を側室にと考えておいでじゃ」

 万はこの言葉で驚きのあまり顔をあげて、春日局の顔をまじまじと見た。

「最も、そなたと玉とは実の姉妹以上の間柄。側室ということにでもなれば、そなたにも思うところがあろう。それ故こたびばかりは、我等も無理にとはいわぬ」

 そこまでいうと、春日局は立ち去ろうとした。

「お待ちください。玉を側室にするとのこと、もし玉がよろしいというなら、私には何の異論もござりませぬ」

 と万は簡単に返事をしてしまった。


 しかし、さすがに玉はこの件に難色をしめした。

「そのようなこと、お万様をさしおいて、あまりに恐れおおいことでございます」

 と玉は恐縮していう。

「玉よく聞いておくれ、私はもうずいぶんと上様と寝床を共にした。なれどいまだに子を授かってはおらぬ。もしやしたら私は石女なのやもしれぬ。このままゆけば、やがて上様は新たな側室を迎えることになるやもしてぬ。その者が上様の子をなすよりは、そなたが子をもうけよ」

 と万は玉に顔を近づけ、半ば命令口調になった。

「まだあきらめるのは早いかと存じます。それにもし私が子をもうけたとて、将軍家の世継ぎは、すでに決まっておりまする」

「竹千代君のことか、なれどこういう言い方はあまりやもしれぬが、あの若君は病弱じゃ。いつ命はてるやもしれぬ」

 と万は声を小さくしていった。

「それにのう、もしあの若君が無事将軍職を継いで、若君の子、孫と将軍職が継承されたとて、いつか血が途絶えるやもしれぬ。その時になって、そなたの血筋の誰かが将軍になれば、我らが今日ここにあったこと無駄にはならぬのじゃ」

「かように遠い将来のことを申されましても……」

 と玉は困惑した。

「とにかく玉、そなた今までよう私に尽くしてくれた。これよりはそなた生きよ。己の人生を己の手で、私もそれを望んでおるのだ」

「もったいなき、お言葉にござりまする」

 玉はかすかに、目を潤ませずにはいられなかった。

「それにしても……。後の世の人々は我らをどう思うのであろうのう。まこと我等、なんという星のもとに生まれてきたのであろうか」

 万は思わず長嘆息した。


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