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【第二章】玉 将軍の閨へ(二)

 三月ほどして、ようやく傷も癒えた玉は、ついに将軍の寝所へ赴くこととなった。

 先だっての化粧もまた厳重を極める。特に春日局は、化粧には強いこだわりがあったようである。「大奥化粧訓」なるものまで書き、その冒頭でいわく。

「化粧も髪結うことも、夜明けてするものに非ず。女の寝顔はすさまじきものにて、朝寝して人に見られるは恥ずかしきことなり」

 まず玉は、男羽織に似たものを前後に着せられた。そして白粉を顔だけでなく襟元、胸にまで他の中臈が念入りに塗った。白粉は京白粉である。春日局がいつか京で見た、宮廷の女官が使っていたものだという。

 次が口紅である。まず白粉を唇いっぱいにぬり、その上に唇の型紙をくわえこむようにする。そしてそこだけ赤筆で紅を塗った。これもまた何度も何度も塗り重ね、ついには金色に輝くまで塗り続けたという。

 結局、化粧は一刻(二時間)にも及び、玉はじっとしているのに、半ばくたびれはててしまった。しかし完成した鏡の向こうの我が身には、驚きを隠せなかった。そこにはすでに青菜売りの娘ではなく、これから将軍を寵愛を受ける、中臈としてのお玉がいた。


 いよいよ将軍の待つ寝所へ「お渡り」となる。今まで万が幾度も通ったであろう道を、今自分も通るのかと思うと、玉は精神の高ぶりをおさえるのに苦慮した。

 はるか後年になると、将軍は性生活にまで監視が付くこととなるが、この時代にはまだそれはない。玉は一人の部屋で興奮を必死に抑えていた。そしてついに将軍が現れた。

 玉を一目見て、将軍はかすかに驚きの色をうかべた。

「うむ見違えるようじゃ。あのおり、青菜売りと路上で争っていたおなごとは、まるで別人のようじゃな」

 将軍は皮肉めいた口調でいう。

「上様こそ、お万様からは頼りない方と聞いておりましたが、あの凛々しき御姿」

「いや、剣だけはこれでも柳生新陰流の免許皆伝といったところじゃ。浪人新三郎としては、ずいぶんとそなたの世話になった。そなたにぶたれた時のことは、今でもはっきりと覚えておる」

「まこと、あのおりの無礼はご容赦のほどを!」

 と思わず玉は、顔色をかえて謝罪した。

「いや、余は生まれてから一度たりとも、おなごにぶたれたことなどなかった。あのおりは、まことによい経験をした」

 そこまでいうと将軍は、玉を胸に抱く。

「大奥のしきたりでは、余と一度でも閨を共にすれば、もはや宿下がりさえ許されぬ。この大奥で終生を過ごすこととなるが、それでもよいか?」

 と将軍は念を押す。

「私には、戻る家などございませぬ。父を早くに亡くし、母にはもはや会いたいとも思いませぬ。自らの運命を恨んだこともありました。上様の手の者によって、万様もろとも寺を包囲された時は、ひどく絶望もしました。なれど、今の私は生きていたい……。浪人山中新三郎、いえ徳川三代将軍家光様……あなたの側近くで……」

 と十六歳の玉は、将軍の頬に手を当てながらいった。

「玉わしも生きたい! そなたと共に!」

 と将軍はかすれた声でいった。こうして玉にとって初めての夜がやってきた。


 ……長い夜の末、玉が目を覚ました時、将軍は寝息をたてていた。股間のあたりを触ると血がこびりついていた。玉は四つん這いの状態で、下腹部に布を押し当てながら、将軍の上におおいかぶさる。将軍はまだ寝ている。しばし玉はこの国の最高権力者の寝顔を見つめていた。しかし、将軍が寝言でささやいた言葉は、玉をひどく憤慨させるものだった。

「万……愛しているぞ」

 一瞬、玉は将軍を一思いに絞め殺したい衝動にかられた。どこまでいっても、自分は万の身代わりでしかないのだろうか……? 己が操をささげた直後なだけに、玉はこのことを終生わすれなかった。







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