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【第三章】傾国の悪女(二)

 「上様! 一体こたびの不始末どうけりをつけるおつもりか! よりにもよって将軍が湯殿でお末に手をつけるとは!」

 大奥御座の間で春日局は、またしても将軍家光相手に怒りを爆発させた。

「あいすまぬ。欲望をおさえきれず、つい手がでてしまった」

 と将軍は、さすがに自らの行いを恥じるかのように小さな声でいう。

「あのお夏なる者のもとに仕えていたお末たちにも、決して今回の一件を口外せぬよう厳しく申しました。なれどすでに噂は本丸にも広まっており、隠しとおすことかないませぬ。上様は東照神君以来の徳川の名に、泥をぬったのでございますぞ!」

「それで、あのお夏なる者は今どうしておる?」

「あまりのことに寝こんでおりまする。今回の一件、御台様もあきれておられまするぞ!」

「なれど福(春日局の本名)、あのお夏なる女、御台よりよい体をしておったぞ」

 すると春日局は 手にしていた扇子で、びしっと畳を叩いた。

「上様! 上様はおなごをなんと考えておいでか!」

 春日局は恐ろしい顔になった。

「許せ福! 許せよ!」

さしもの将軍も、もはやこうなってしまっては、蛇ににらまれた蛙も同然だった。


やがて精神的ショックから寝こんでしまったお夏のもとに、春日局の使者として柏木なる者がやってきた。

「こたびのこと、上様も深く後悔しておられる。事が事ゆえいかがなものかと存じるが、上様におかれてはそなたを所望しておられる。もしかなうことなら、そなたに側室として、側近くに仕えてほしいとおおせじゃ」

 この言葉に、お夏は信じられないというような表情をうかべた。

「なれど側室に選ばれるのは、本丸・大奥に勤めているもので、お目見え以上の者と決まっているのでは?」

「上様が望みとあらばその限りではない。お詫びといってはなんだが、もちろん側室ということになれば、上様はそなたのほしい物は何でも与えることができる。

 もっとも、いかに上様だからといって、そなたも女。己を辱めた相手に仕えるは心苦しかろう。それゆえ我等も無理にとはいわぬ。かといって噂はすでに城内津々浦々にまで広まり、ここにこれ以上いるのも、そなたにとり恥ずかしきこと。故にここで見たもの、聞いたもの全てを口外せぬという約束で、里に帰ることを許す。その際は、我等としても相応の金子はだすつもりじゃ。よくよく考えてから返答せよ」

 お夏は事件のショックからか虚ろな目をしていた。柏木が去った後も虚脱状態が続いた。

 お夏には薄々己の運命がわかっていた。里に帰ることを許すといったが、己は将軍の弱みをにぎってしまったのである。そのような者おとなしく里に帰すであろうか? 道中刺客が待ちかまえていて、命もろとも口を封じられることは十分にありえよう。第一帰れといわれても、己には帰る場所がないのである。

 数日考えた後、結局、お夏は側室への道を選ぶのだった。理由は一つには、今まで社会の底辺で生きることを余儀なくされてきたお夏である。将軍側室という至高の地位は、やはり大きな魅力だった。しかしそれだけでない。もっとどす黒いものが、お夏の胸中にはうずまいていたのである。


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