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【第三章】お夏の復讐(一)

 お夏が初めて大奥御小座敷にある将軍の寝所へと赴いたのは、寛永十九年のようやく桜も咲く頃のことだった。

 桜、梅、牡丹などの模様のはいった打掛を着て、化粧をしたお夏は、お末の頃とは別人のようである。しばらく待つと、ついに将軍が姿を現わした。将軍はまず今回の一件を謝罪した。

「いえ、将軍ともあろう方が、私のような者を相手に恐れおおうございます」

 とお夏は、つとめて冷静にいう。

「私はもともと、体を売って身を立てていた者にございます。他のおなごならいざ知らず、私にとってはそれほどまでの大事ではござりませぬ。上様の御側に仕えることには何のためらいもございませぬが、ただ一つ、お願いしたきことがございます」

「なんじゃ? 何なりと申せ」

「実は私には、夢にも忘れたことのない仇がおるのでございます。もし許されるなら、上様の力をお借りして、その者たちに無念を晴らしたいのでございます」

「詳しく話しを聞こうか」


 ……お夏は京生まれの京育ちで、幼少の頃に廓に売られ、廓で成長したという。

 十七の頃、自らの客として廓を訪れた薬屋の若旦那・与助と愛人関係になり、ついには自らを身請けし、夫婦になるという約束までかわす。しかし与助の店の経営はうまくいってはおらず、ついには与助は、お夏にまで金の無心をするようになる。夏は与助を信じて、金の面倒まで見る。しかし、ある時期を境に与助はお夏の元に通ってこなくなった。

 やがて一年が過ぎた。ついに我慢の限界に達したお夏は、店を無断で抜け出し、与助の店を突きとめる。そこで信じられない人物と遭遇する。

「お前は三芳じゃないか!」

 店の奥から姿を現わしたのは、かって同じ廓で体を売っていて、いつの間にか姿を消した三芳という遊女だった。

「お前はお夏じゃないか? あんたこそ、どうしてここにいるんだい?」

 なんと与助に身請けされたのは、お夏ではなく、三芳のほうだったのである。

「あんたも馬鹿な女だねぇ! うちの亭主はとっくの昔に、あんたなんかに飽きていて、私にのりかえたってわけさ。何身請けの約束? あんたみたいな女本当に身請けする物好きなんていやしないよ。さあわかったら帰りな!」

 お夏は激高した。突如として、三芳に体当たりを食らわせ転倒させる。そして、そのまま無断で店内に突撃した。店の者が止めようとするもお夏は構わず、大暴れして、店内を混乱におとしいれた。おかげで薬が散乱して、あちこちで粉がまいあがる。

「誰か、その女を捕まえろ!」

 やがてお夏は、店の奥座敷で煙管をぷかぷかとふかしている与助を発見した。突然出現したお夏に、与助は白昼、幽霊でも見たかのように顔面蒼白になった。

「しらん! お前のことなど知らぬ! 身請けの約束? 何のことだ」

 冷たい言葉に、お夏の怒りは頂点に達した。

「金を返しておくれ! あんたに貢いだお金今すぐに! 全て返しておくれ!」

 やがて店の者が数名がかりで、お夏を店の外へ追いだした。

 事件はすぐに廓に知られ、お夏は廓にいられなくなった。自殺しようかとも考えたが、様々な伝手を頼って、公家の名門鷹司家に雇われることとなった。もちろん華やかな貴族の世界とはほど遠い、末端の雑役従事者としてだった。

 やがて将軍の正室孝子の弟が、姉の側近くで仕えるため江戸に上ることとなった。お夏もまた使用人の一人として、江戸に赴くこととなったという。


「うむ、世の中には女を欺く下賤な男もおるというが、そなたも哀れな女子よのう……」

 将軍は思わずため息をつく。

「上様さえお力になってくれれば、私は無念を晴らすこともできまする」

 と夏は哀願するようにいう。

「その代わり、わしの側にいてくれるな」

「喜んで、御側に仕えとうございます」

 こうしてお夏は、将軍との初めての夜をむかえるのであった。


 やがて、お夏の復讐が始まる。まず最初に標的になったのは、あのお末の八重だった。厳しい取り調べの末、八重は将軍をも侮辱したとして死罪。縄でぐるぐる巻きにされたうえで、水風呂に沈められた。

 さらに他に事件に加担したお末たちも、無事ではいられなかった。次から次へと捕らえられ、裸にされたうえで巨大な釜にほおりこまれ、そのまま釜茹でにされてしまった。

 お末たちが悲鳴をあげ、ついには断末魔の叫びをあげる光景を目撃しながら、お夏は満面の笑みをうかべた。まさに鬼の微笑みだった。

 しかしこれは、お夏の復讐の序章にすぎなかった。



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