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【第三章】お夏の復讐(二)

 ようやく春も訪れようかといううららかな日のことである。部屋を別々にして以来、久しく会ってなかった万と玉は、ようやく顔をあわせ碁を打っていた。

「それで、今度新たに御中臈になったという、お夏なる女は何者なのでしょうか?」

「何でも、廓出身で御湯殿で上様の手がついたとか……」

 万は碁盤に石を打ちながらいった。

「何と汚らわしい! 上様も何故そのようなおなごを!」

「そう申すな玉。廓出身といっても我等と同じ都の出身らしい」

「万様は人がよすぎまする。その夏なるおなごと、都の思い出話しでも語るというのですか?」

 玉が石を打ちながらいう。万は返事をせず、しばし盤上を見つめた。

「玉、以前のこともあるのでわかっておろうな。そのお夏なるおなごのことはともかく、決して春日様を怒らせてはならぬ。軽挙妄動は慎むように」

 今度は玉が、盤上を見ながらしばし沈黙した。やがて口を開くと、恐ろしいことを言った。

「いっそのこと、殺してしまえばよいのでは……」

「殺す! 馬鹿な! それにどうやって命を奪えと?」

「伊賀の忍びを使うのです」

 同時に玉は石を打った。

「万様、私の勝ちでございます」

 万は再び盤上に目をやって沈黙する。

「うぬ! かような手を使うとは、今までのそなたの打つ手とはまるで違う。正直に申せ。そなた玉ではないな一体何者!」

「ほほほ、さすがは万様。ばれてしまっては仕方ありませぬなあ。私は玉様のもとに仕えている伊賀のくノ一(女忍者)で、如月と申します。玉様は最近体調を崩すことが多く、私が代わりにやってまいったまで」

 大奥の位の高い女中達は、自らの部屋方に化けたくノ一を雇っていることが多かった。彼女達は徹底した守秘義務をもっている。事情がないかぎりは、仲間の伊賀者にさえ、大奥女中達と交わした密談は口にださなかった。

「それで、玉はそなた達を使って、その夏なる者の命を奪うと! 帰って玉に必ず伝えよ。今一度いう。軽挙妄動は慎むようにとな!」

 と万は怖い顔をして言った。

「委細承知いたしました。それと実は今一つ万様にお伝えするよう、玉様からの伝言にございます」

 如月が何事かを万の耳元でささやくと、万の顔色がみるみるうちに変わった。如月が去った後も、万はしばし呆然としていた。やがて、不覚にも振り下ろした拳が碁盤に当たり、碁石が散乱した。

「玉がとうとう上様の子を宿したと!」

 万の胸中は実に複雑だった。そして玉が突如として、遠い存在になったような気がした。


 遠く京でも桜が咲き、やがて散りはじめる頃のことだった。王朝の昔を伝える葵祭りが、四月の中の酉の日(新暦では五月十五日)におこなわれ、都人の注目を集めた。葵祭りは京都三大祭りの一つとされ、その歴史はたいへん古く、源氏物語の中にも、六条御息所の「車争い」の話しとして登場する。

 葵の花を飾った平安後期の装束での行列が有名で、斎王代が主役と思われがちだが、祭りの主役は勅使代である。当日の内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾る。したがって葵祭りと呼ばれるわけである。

 雅な王朝文化を、江戸期のこの時代まで伝える祭礼の日に事件はおこった。突如として京都奉行所の人間が、かってのお夏の愛人だった与助の薬屋に、土足で踏みこんだのである。

「これは一体何事でありますか?」

 与助も妻の三芳も真っ青になった。

「この店が切支丹にかぶれているという風聞があった。念のため調べさせてもらう」

 店につとめている者たちが動揺する中、奉行所の頭らしい男は、店の奥で懐から十字架を取り出した。かねてからの筋書きどおり、それを高々とかかげる。

「あったぞー!」

 と大音声をあげた。

 野次馬たちも騒然とする中、与助と三芳それに店の者たちは、ことごとく捕らえられた。唐丸籠に乗せられ、江戸まで連行されることとなったのである。


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