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【第三章】楽の悲哀と別れ(一)

 さて、お楽は出産以来、ずっと寝たり起きたりの生活をつづけていた。江戸の山々が紅葉で染まる頃、お夏の部屋方の者が、楽の見舞いと称して訪ねてきた。

「最近、お夏殿はあまり姿を見せぬが、よもやお腹様を軽んじているわけではあるまいな」

 とかたわらに控える楽の部屋方の者は、威圧的な物言いをする。

「梅よい! お夏殿も上様に仕える身として、日々忙しいのであろう」

「それが……どうも……お夏さまにおかれましては……」

 と夏の部屋方の者は言葉を濁した。

「何じゃ? はっきり申せ」

 楽は、かすかに苛立ちながらいった。

「どうも、お夏様におかれては、懐妊の兆しありとのことでございます」

 楽の部屋方の者たちはどよめいた。

「そうか……お夏殿には大事な上様のお種じゃ。体調を崩すことなきよう。そなたたちもよくよく気を使うのじゃぞ」

 と楽はつとめて冷静にいう。

「これはお夏様より、お楽さまにと……」

 部屋方の者は、菓子を置いて去っていった。

「あのお夏とかいうおなご、かなりの曲者のようでござりまするな。何でも湯殿で上様のお手がついたとか」

「そういえば、その昔我等をおとしめようとした、あの玉とかいう女子も出産が近いとか……」

 夏の部屋方の者が帰ると、楽の周囲の者達は再び騒ぎはじめた。

「これ! あまり人を悪しざまにいうものではない」

 と楽がたしなめる。

 ところが部屋方の一人が菓子の箱を開けてみて、またしても驚きを色をうかべた。

「これは菓子ではありませぬ!」

 何と中からでてきたのは、色鮮やかな千羽鶴だった。楽の表情がみるみる変わった。

「うぬ! さてはわらわの父の出自を卑しんでかような物を! 許せぬ!」

 その時、楽は激しく咳をして、苦痛の表情をうかべた。

 その日以来、楽はまたしても体調不良になり寝こんでしまう。春日局は楽の身を哀れんだ。


 そろそろ中秋が近づこうかという頃のことである。その日の朝は、楽も体調もよく、体を起こそうとした時だった。

「母上、母上!」

 突如として楽の部屋に姿を現わしたのは、普段は乳母である矢島のもとにいるはずの竹千代だった。

「竹千代! どうしてここに?」

 次の瞬間、楽はさらに信じられない人物を姿を見ることとなった。

「母上様!」

 それはまさしく、母の紫だった。

「一体どうしてここへ!」

「春日様のお許しがでて、今日一日はお前の見舞いがかなったんだよ」

 楽は思わず、春日局の情けに感謝した。

 その後の楽の記憶は曖昧だった。紫の顔を見ると、今までの大奥での様々なつらいことが脳裏をよぎり、泣き出すまいと必死だった。しかし紫の側からすると、娘がかなりの心労を負っていることが、かすかな仕草からもはっきりと見てとれた。

「楽お前大丈夫なのかい? 本当に辛いのなら、一度宿下がりしてもいいだろう。家に戻ってきたらどうだい」

 と思わず本音をいってしまった。

「母様、ご存じないのですか……? 上様のお手が付いてしまった側室は、もう宿下がりもできないのです」

 楽の言葉に、紫はしばし言葉を失った。目の前にいる娘が遠く、そしてあまりにはかない存在に思えた。

「弟たちは元気にしていますか?」

 と楽は自らの心の動揺をはぐらかすように、紫に聞いてみた。

「息子たちなら、皆士分への取り立てが決まりました。これも皆あなたのおかげです」

 すると楽は、かすかに泣きそうな表情をうかべたが、すぐにまた明るい表情に戻った。

「そういえば、吉次さんはどうなりました。確か古河藩への士分の取り立ての話しがあったはず」

 すると紫の表情が豹変して、明らかに言葉を濁した。

「どうしたんですか? 何かあったのですか?」

 異変を察して、楽は表情を強張らせた。

「いい楽、落ち着いてよく聞いておくれ。実は吉次さんは、すでにこの世の人ではありません」

 楽は思わず我が耳を疑った。この後の紫の話しは、楽にとりあまりに衝撃的だった。


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