楽が将軍の子を宿し、吉次は将軍家の世嗣ぎの母の義理の兄ということになった。そのため常陸屋の中でも、今まで親しく口を聞いていた者でさえ吉次を敬遠するか、もしくは煙たく思うようになった。吉次は常陸屋の中で、実に浮いた存在になってしまう。
ある時、常陸屋で宴会がおこなわれることとなった。
吉次は誰と話すわけでもなく、一人で酒を飲んでいる。吉次はあまり酒が強くない。しばらく飲むと、ほどなく眠くなりはじめた。近くで誰かが吉次の噂をする声が聞こえてきた。
「こいつ寝ているのか?」
「それにしてもこいつも因果な奴だよな。まさかてめえでお払い箱にした女が、今や将軍の側室とはな。なんでも妹を捨てて、姉をとったらしいぞ」
「あまり好きじゃないなそういうのは……」
「そういってやるなって。こいつの捨てた女のおかげで、うちの店は大儲けしてんだからさ」
「まあ色男様々ってとこだな」
普段の吉次なら、聞き流すこともできたかもしれない。しかしこの時は酒は入っていたため、感情をおさえることができなかった。
「喜介、伊佐治、もういっぺん言ってみろ!」
と立ち上がり怒号をあげた。その剣幕に二人は逃げだした。吉次は追いかけ、二人はなおも階段を使って逃げようとする。ここで不幸はおこった。酒で足もとのおぼつかない吉次は、不覚にも階段を踏み外し、鈍い衝撃音と共に転がり落ちた。
……吉次は足に障害をかかえることとなり、長期療養のため、常陸屋に出仕することもできなくなった。しかしなんといっても、今や吉次は将軍家の親族なのである。店としても粗略に扱うことはできない。一度も店に顔をださなくても、給金だけは毎月支給されていた。誇り高い吉次にしてみれば、この一種の生殺し状態もまた、日々耐え難い苦痛だった。
ここに将軍家より、吉次を古河藩で士分に取り立てるという話しがきた。店としては、厄介払いの絶好の好機である。しかし吉次は、この話しにも難色をしめした。
「楽の馬鹿野郎め! 俺は十五の時から、ただひたすら商いの道を歩んできたんだ。それが今さら侍になんてなれるか。だいたいこの体で、侍がつとまるわけねえだろ」
しかも吉次を苦しめていたのは、それだけでなかった。
「ただいまー」
夜四つ(午後十時)になって、ようやくお網は長屋に戻ってきた。
「遅かったな。今までどこで油売ってた」
「ごめんなさい。油は売ってないけど、ちょっと商談が長引いて……」
「商談、その商談の相手というのは、神田の染物屋の若旦那のことかい?」
お網の表情が変わった。
「知らないね。一体どちら様のことだい?」
「とぼけるな! てめえがそいつと情を通じていることぐらい、こっちはとっくにお見通しなんだよ!」
この後、壮絶な夫婦けんかの末、吉次はお網を長屋から追い出してしまった。
しかし、一人になってしまうと、もはや吉次は厠にゆくのも億劫であった。立ち上がろうとしたが転倒した。
「畜生! 俺はとんだ愚か者だ! こんなことになるなら、あの時やはり楽を選ぶべきだったか! よもやこのような形で仕返しされるとは……」
吉次は、無念のあまり強く唇を噛んだ。
翌日早朝のことである。お網は密かに長屋に様子を見に戻った。そこで見たものは、刃物で喉をついて、すでに絶命した吉次の姿だった。
紫の話しを聞きながら、楽は唇を震わせ、感情を抑えるのがやっとだった。
「それで、姉は今どうしているのです?」
楽は心なしか表情を強ばらせて聞いた。
「己の行いを悔いて、今は出家して、吉次さんの菩提を弔う日々を送っています」
「墓はいずこの寺にあります? 私達は通常ここから出ることはできません。しかし寺社への代参という名目でなら、大奥から出ることができます。せめて、せめて吉次さんの墓に参りたいのですが……」
「なりません!」
紫は厳しくいった。
「あなたが行けば、お網がまた苦しむことがわからないのですか! あなたの復讐ならすでにすんだはずです」
「私はそんなつもりでは……」
楽は言葉をつまらせた。
この後、二人は楽の幼少の頃の昔話しなどをした。そして日が暮れる頃、春日局とのかねてからの約束通りに、紫は楽の部屋を辞去する。
「さようなら楽」
「さようなら母上」
と二人は、まるで明日また会えるかのごとく、そっけない挨拶をかわして別れた。
しかし紫が去ると、楽はこらえていた感情を爆発させるかのように泣き出した。
「母上……泣いているのですか?」
不思議そうな顔をする竹千代を横目に、楽は泣き続けた。特に吉次のことを思うと、胸がつまり、呼吸さえも止まりそうだった。
「吉次さん……これでわかったでしょう。誰が本当にあなたのことを愛していたか。どうして、どうしてあの時、私を選んでくださらなかったのですか!」
楽は髪を乱し、唇をふるわせながらいった。
こうして紫は去り、これが両者にとり今生の別れとなるのだった。