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6月 39

 カレンバウアーは黙っている三喜雄の様子を少し窺ったが、続けた。


「武藤さんから、あなたが気を悪くしたというよりは、困惑したようだと聞きました……ですから昨日の提案は押しつけませんが、いつでも有効だということは、心の片隅に留めておいてほしいです」

「……はい、ありがとうございます」


 感謝の言葉は、三喜雄の口から素直に出た。みだりに触れられるのはちょっと反応に困るけれど、親身になってもらえるのは嬉しい。

 カレンバウアーはやや声のトーンを落とした。


「昨日の夜、片山さんが布団にくるまって独りで泣いてる夢を見て……武藤さんにお見舞いを頼んだんです、今日は一日中ずっと心配でした」


 それを聞いた三喜雄はどきっとして、薄ら寒いような、ちょっぴりむずむずと嬉しいような、複雑な気分になった。確かに昨夜は寝つけなくて、ぶり返す恐怖や孤独感と闘っていた。そういうものが、離れた場所にいる人間に伝わることがあるのだろうか? それで、この人に緩く抱かれる幻影が残るなんて、ほとんどホラーだと思う。


「えっと、昨夜はちょっと寝苦しかったですけど……心配していただくようなことではないです」


 三喜雄は心臓が速めに打つのを意識しながら、カレンバウアーと目を合わせずに言った。彼は心配を声に滲ませる。


「そうでしたか、でも心にダメージを受けているのを軽んじてはいけませんよ」


 はい、とぽつりと答えて、三喜雄はもったりと上半身を起こした。身体を動かすのに、左手を使わないようにする癖が、すでに身についていた。カレンバウアーは慣れた手つきで、枕を三喜雄の背中に入れてくれる。


「ドーナツマスターの人は誰か来ましたか? 野積さん?」


 カレンバウアーがその話をしに来たのだと理解した三喜雄は、小さくはい、と答えた。


「……正直、嫌な気持ちです」

「片山さんにも誰にも、何一つとして責任はありません」

「頭ではわかってるつもりです」

「心でも理解できるようになればいいですね」


 カレンバウアーも野積も簡単に言うが、共演する予定だったピアニストに焼身自殺されて、もやもやしない訳がない。三喜雄は微かな苛立ちを覚える。


「……カレンバウアーさんは、俺の伴奏者がよくわからない経緯で選ばれていたのを、ご存知無かったんですよね」


 彼がこの話題を早く切り上げようとしているのを感じているにもかかわらず、三喜雄は訊いた。ええ、とカレンバウアーは寛大にゆっくり頷いた。


「何処を探しても学生時代の実績しかわからないので、どういうピアニストなんだろうかとずっと気になってましたけれどね」

「でも、何もおっしゃらなかったんですか?」

「はい、日本では伴奏者が軽んじられる傾向がありますから……それに今回のこれはあくまでもドマスさんの企画なので、一度聴いてみて、商品のイメージを損なうレベルでなければ構わないと考えていました」


 ピアノを聴くつもりでいたのか。三喜雄は少し驚いた。カレンバウアーは小さく溜め息をつく。


「この企画には、日本の知られざる音楽家を発掘して応援する意図がありました……ですから、演奏が良くて、片山さんが歌いにくくなければ、無名のピアニストに弾いてもらっても問題なかったんですよ」

「じゃあ、ドマス側が勝手に気を回した……ってことになるんでしょうか」


 三喜雄の言葉に、カレンバウアーはうーん、と首を捻る。


「野積さんのメールを読む限りでは、ピアニストが選ばれた経緯に問題があって、社内でも反対されていたということなので……それをもっと早くに知っていたら、私たちもピアニストのレベルがどうであれ、一旦話を止めたかもしれません」


 カレンバウアーはじっと三喜雄を見つめた。


「ただ、本番にコンディションを合わせられない演奏家は降ろされても仕方がありません……これは植村忠明というピアニストの失敗で、私たちが責めを負う理由は何も無いんです」


 カレンバウアーの声には力があった。


「日本風に言うなら、植村さんにはこの仕事とのご縁が無かったのでしょうね」


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