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6月 40

 三喜雄はそうですね、と小さく答えた。縁や運は、こういう仕事をする上で大切である。三喜雄は常々、良い巡り合わせに助けられて自分は歌い続けていると感じている。実力があっても運が無い者は、星の数ほどいる音楽家が必死で泳ぐ広大な海面から、顔を出すことができないのだ。

 カレンバウアーは、布団の上に出ている三喜雄の左手を見て、尋ねてくる。


「指は? 痛くないですか?」


 三喜雄も、包帯に固められた2本の指を見た。こんな手袋がありそうだ。


「じっとしてたら痛みは無いです、来週から授業でピアノを弾くのが大変そうですけど」

「無理しないでくださいね」


 カレンバウアーに慈しみ深い微笑を向けられた三喜雄は、何故かちょっと照れてしまう。何かこの人、たまに困る。

 カレンバウアーは、ああそうだ、と言いながら、鞄を膝の上に上げてファスナーを開いた。


「音楽が聴きたいかなと思って」


 彼が差し出したのは、家電量販店の小さな袋だった。三喜雄は躊躇いつつそれを受け取り、袋のセロテープを剥がす。中から出てきたのは、ワイヤレスのイヤホンだった。

 三喜雄は驚き、顔を上げた。自宅に置いて来た、自分が普段使っているものより明らかに良いものだったこともあるが、音楽が聴きたいと彼の前で口にしたことが無かったからだった。

 困ります、と言いかける三喜雄を、カレンバウアーが先に制する。


「お見舞いです、昨夜寝苦しかったなら今夜は役に立ちそうですね」


 音楽を演奏する人間が、大概は聴くのも好きだということを、カレンバウアーはよく知っているのだ。

 イヤホンが欲しかったのは確かなので、三喜雄は今日は素直に受け取ることにした。


「ありがとうございます、本当にいろいろすみません」

「こういう時は、できるだけいつもの生活に近づけることが大事ですよ」


 そうか、と三喜雄は思う。今の自分は、大地震で被災した人に少し似ているのだ。予期しない厄災に突如見舞われ、生活の基盤を脅かされている……自分は全てを失ってはいないのだから、比べてはいけないのだろうけれど。

 そう思い至ると、心配をされたくなくて大丈夫だと周りに言うのも、やはり多少の強がりや無理があるらしいと感じた。

 三喜雄は小さな電子機器の箱を、両手でそっと包んだ。


「……本当にありがとうございます、大切にします」


 カレンバウアーはそんな三喜雄を見て、ふっと笑った。


「大げさですね」

「いえ、ほんとはイヤホンが欲しくて、下のコンビニで探したので……」


 三喜雄がうつむき加減で言うと、ああ、とカレンバウアーは溜め息混じりになった。


「だから、そういうのを何でも頼んでほしいと昨日からずっと言ってるのに」


 武藤の「世話好きが過ぎる」という言葉が頭の中をよぎった。ほんの最近知り合いになった人から、欲しいものを教えろと言われて、じゃああれをくださいと即答できるほど三喜雄は図々しくないし、図々しいと思われたくもない……いや、この男性は、上等なシャツやイヤホンくらいなら図々しいとも感じないようだから、三喜雄の気遣いがほぼ無駄になっている。


「すみません、俺たぶん、『申し訳ない』とか『迷惑をかける』っていう基準が、カレンバウアーさんとかなり違うみたいです」


 三喜雄はベッドの傍に座るドイツ人の顔を盗み見るようにしながら、思い切って言った。彼は眉を上げて、困惑を表情に浮かべる。


「なるほど、だから私は片山さんを困らせてるんですね」

「えっと、カレンバウアーさんも困ってらっしゃるから、お互い様でしょうか……」

「どうしたら、この溝を埋められるでしょうか」


 言った尻から、カレンバウアーは三喜雄を困らせてくる。溝を埋めたいのかよ、つか溝って言うほどでも無いだろ、何なんだ。


「さあ……俺とカレンバウアーさんは、こうしてサシで話すようになって間も無いので、ある意味仕方ないのでは」


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