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6月 41

 サシ? とカレンバウアーは小首を傾げたが、三喜雄にすぐに確認してくる。


「それは、一対一で、の意味でしたか?」

「あ、はい、そうです」

「……それもそうですねぇ……最近お話しする機会が続いたから、長いおつき合いのような勘違いをしているかもしれません」


 何言ってんだこの人。意味不明過ぎて、三喜雄は小さく笑ってしまった。とにかく困惑させられるのに、不快感が無いのは不思議だった。この人の秘書である武藤も、上司が異様に世話焼きなことを容認している様子なので、これはもしかしたら、人徳かもしれない。

 その時扉がノックされ、看護師が夕食を運んできた。その後ろから担当医も入ってきて、カレンバウアーが座っているのを見て、ちょうどいいと言わんばかりの口調で、話しかけてきた。


「片山さん、検査の結果も問題無いですし、体調が戻ってらっしゃるなら、明日にでも退院できますよ……ホテルでしばらく過ごされると聞きましたけど」


 退院していいなら、それに越したことは無い。ホテル暮らしも想像するだに憂鬱だが、病室にいるよりはずっと良かった。


「はい、マンションの管理人さんからは、いつでもホテルに行っていいと言われてます」


 医師は三喜雄の返事に頷いた。看護師がテーブルを出して、食器の並んだトレーを静かに置く。


「早くご自宅に戻れたらいいですね……いずれにせよ、ここは気が滅入るでしょうし入院費もばかにならないと思うので、動かれたほうがいいと思います」


 はい、と三喜雄は答えた。カレンバウアーは三喜雄に、申し訳なさそうに言う。


「明日は私、ベルリンの本社とオンライン会議などがあって、移動のお手伝いができません」


 昨日瀧が買ってきてくれた洗面道具や服が、少し荷物になりそうだった。しかし、忙しいCOOの手を煩わせるほどではない。


「大丈夫です、タクシーでホテルに直行します」


 医師は三喜雄とカレンバウアーの会話の区切りで、言った。


「では今から退院の手続きを始めますね、夕飯が終わったら、事務担当とまた来ます」

「よろしくお願いします……あの、差し支えなければ教えてほしいんですけど」


 三喜雄は医師を呼び止めた。彼は黙って頷く。


「逢坂さんは、どうしてますか?」


 医師は微妙に眉をハの字にしたが、隠さずに教えてくれた。逢坂自身が、片山さんが助けてくれなかったら、ヴァイオリンも燃えていたし、自分もたぶん死んでいたと口にしているらしい。


「逢坂さんも明日の午後に退院して、ご実家に戻る予定です……ただかなり精神的に参っていて、お母様が心配して泊まり込んでらっしゃいます」


 何となく予想していたものの、それを聞いて、三喜雄はやはりショックだった。看護師がそこで、思い出したように言った。


「逢坂さんが助け出された時に着てたのって、片山さんのスーツなんですよね? ご両親が弁償したいとおっしゃってました」


 三喜雄もスーツのことをすっかり忘れていた。弁償なんかしてもらわなくてもいいが、大切なものではあるので、引き取りたいと思った。

 するとカレンバウアーが、遠慮を見せつつもはっきりと言う。


「弁償とおっしゃるくらい、ダメージを受けていますか?」


 これには医師が答えた。


「いえ、焼けたり破れたりはしていない感じですよ……煤と臭いはついてますが」


 三喜雄は軽く身を乗り出した。


「あの、そのまま返してもらってもいいくらいなんですけど、それだと逢坂さんも困ると思うので、クリーニングに出していただければ十分だと伝えていただけますか?」


 医師と看護師は、わかりました、と同時に言った。2人が出ていくと、三喜雄はひと息つく。自分も人からタオルを借りているが、どうやって返せばいいだろうか。

 カレンバウアーは独りの食事は味気ないだろうと言って、階下のコンビニに行き、パンとコーヒーを買ってきた。彼は病院食を口にする三喜雄の横で、コンビニのプライベートブランドのくるみパンを食べながら、他愛ない話題を振ってきた。

 カレンバウアーに申し訳なかったが、確かに病室で独り食事をするのは、自宅で同じことをするより寂しいので、三喜雄は彼の好意に甘えておいた。


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