カレンバウアーが差し入れてくれたイヤホンのおかげで、三喜雄は前の夜よりは落ち着いた気持ちで過ごすことができた。よく眠れたとは言い難かったが、雑多なジャンルの音楽をスマートフォンでランダム再生していると、嫌な記憶がぶり返して恐怖に胸がざわざわすることは無かった。
朝一番に深田がメッセージをくれた。これから車で病院まで来て、今日から仮住まいをするホテルまで、荷物共々送り届けてくれるという。三喜雄は有り難く世話になることにした。
朝食のあとに紙袋に荷物をまとめて、2日と少しの間世話になった医師と看護師たちに礼を言った。生命保険や火災保険の手続きに必要だから、診断書の用意もしておいたと医師は言い、スタッフたちがエレベーターの前まで見送ってくれたので、泣いてしまいそうだった。
焼け出された不安に加えて、伝手の無い東京に暮らす寄るべの無さや孤独を痛感させられたこの2日間、医療従事者たちの気配りや優しさに救われた。たとえそれが彼らの仕事であり、三喜雄に対する心遣いが特別なものでなかったとしても。
三喜雄はメゾン・ミューズが作ってくれた新しい名刺を看護師に託し、逢坂と両親に手渡してもらうようにした。しばらく宿無しの身なので、スーツを事務所に送ってもらおうと思ったからだった。本当は逢坂の様子を自分の目で確かめてから退院したかったが、自分と会うことで、彼女にあの時の恐怖をみだりに思い出させてはいけないと思ったので、やめておいた。
保険証とクレジットカードの入った財布を持ち出して本当に良かったと、入院費の精算を待つために本を読みながら、三喜雄は思っていた。会計窓口の前に並ぶソファに座っているところを、深田が見つけてくれた。
「片やんおはよう、精算終わったらすぐ出るの?」
深田もTシャツにジーンズというラフな姿だった。彼の柔和な笑顔を見た三喜雄は、何となくほっとする。
「ふかだんおはよう、今日はありがとう……これが終わったらそのまま出られるよ」
「了解、土曜日でも会計待ち多いんだなぁ」
深田は本当に驚いたように、周囲を見回す。一緒に待たせるのが申し訳ないので、院内の喫茶店で待つことを提案したが、彼は答えた。
「退屈なのは片やんもだろ? 俺は暇潰しにつき合いに来たんだから」
三喜雄は深田の気遣いに感謝する。大学内で偶然知り合って以降、細く長く関係が続いてきた友人だが、よく気がつく人だとあらためて思う。
深田は同じ年齢だが、大学の理系学部を卒業してから芸術大学に入り直した人なので、その時大学院に入学した三喜雄とは、学生生活ではあまり接点が無かった。三喜雄がドイツへの留学を考え始めた頃からよく話すようになり、そっと背中を押してくれたことに今でも感謝している。
三喜雄はほぼ研究者である深田が、彼自身も研究対象になっていることを知っているので、久しぶりにその話を聞いた。彼は嗅覚が鋭い上に、音楽を聴くと香りを感じるという共感覚の持ち主で、定期的に医学系の研究室に通っているのだ。三喜雄と出会った頃は、深田は共感覚を持つことを、どちらかというと周囲に隠していたが、今はオープンにしている。
深田が初めて、自分は共感覚を持つと三喜雄に話した時、純粋に羨ましく感じ、それをどんな風に音楽へのアプローチに使うのだろうかと、興味深かった。大学の先生方は、深田の歌を知的だと評したが、彼の音楽への姿勢だけではなく、きっと共感覚の存在がその言葉を引き出したのだろうと三喜雄は思う。
深田は楽譜をいつも丁寧に読み込む。おそらく譜読みは三喜雄より細かいが、自覚として語学はあまり得意でないようで、ドイツ語やフランス語の歌詞は、たまに三喜雄がディクションしたり訳を手伝ったりする。すると彼はすぐに自分のものにして、三喜雄が考えもしない解釈をしてくることもある。そういう時、彼が理系であることに加え、嗅覚から得た情報を使うのだろうかと思うのだ。
「また1人、国内に仲間が見つかったらしいんだ」
深田は嬉しそうに言った。音楽を聴くと色を感じる人というのは、共感覚者の中でも比較的よく見られるが、深田のように匂いがする人は珍しいらしい。
「でもやっぱり、どこの誰かは教えてもらえない」
「そうなんだ、個人情報がどうとかいう理由で?」
三喜雄が問うと、深田はそうそう、と微苦笑した。
「同種の人と一緒にコンサートに行って、あの曲はこんな匂いがしたぞ、とか語らいたいのに」
「楽しそうだな、それ」
実際に深田は研究グループから「課題曲」を与えられる時があり、それを聴いてどんな匂いがしたのかレポートする。それを受け取った研究グループは、論文にするのだ。深田を含む研究対象者たちは、希望すればそれを読むことができるらしい。
「似たような匂いがするんだと思ったら、実際会って話したくなるのが人情だろ?」
「うん、俺だったらお仲間欲しい」
「今年度から、個別にプロフィールを演奏会のプログラムに載せてもらえる時は、音が匂うって書いてもらうことにしたんだ……悩んでる人がもしいたら、何か励みになればいいなと思って」