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6月 44

 三喜雄の仮住まいとなる部屋は、ホテル4階のダブルルームだった。やはりベッドが病院のそれよりも広くてスプリングが良く、浴室にバスタブもある。ちょっとした書き物ができるテーブルは、室内で音は出せなくとも、楽譜を広げてきちんと見ることができる。

 しかもホテルは何げに、マンションよりも駅から近かった。洗濯はコインランドリーに行けばいいし、自炊が難しいこと以外は、しばらく真っ当な日常生活が送れそうだった。

 今日のお昼は深田としっかり食べたので、夜は駅前のコンビニで軽い弁当を買った。店で温めてもらうなんて、学生時代以来だと思いつつ部屋に持ち帰る。周辺の部屋に、三喜雄と同じように焼け出された住人がいるかどうかは、わからなかった。

 夕飯を済ませると、カレンバウアーからメールが来た。明日もしマンションに様子を見に行くのであれば、つき合うという。

 深田に続いてカレンバウアーの休日を、自分のために潰させるのは申し訳なかった。だが、悪いからいいですという言葉はこのドイツ人には通じないと三喜雄は理解していた。彼は、来たいから(あるいは三喜雄に会いたいから?)連絡してくる。来るならお好きにどうぞ、とは書かなかったが、午後から行こうと思っている旨を返信しておく。

 部屋が余っているから自分の家に来ないかというカレンバウアーの誘いは、客観的に考えると割と魅力的だった。最初、何言ってるんだと思ったが、深田も今日、ずっとホテルだときついだろうから、古い家だがいつでも来てくれていいと言ってくれたので、案外普通の発想なのかもしれない。

 カレンバウアーとのやりとりが済むと、塚山天音からRHINEのメッセージが来た。「カルミナ・ブラーナ」の楽譜と、瀧が置いて行った仕事のファイルを机の上に並べていた三喜雄は、塚山が休日の夜にメッセージを寄越すなんて珍しいと考えつつアプリを開く。


『大丈夫なの? 今日事務所行って、瀧さんから片山が火事に遭ったこと聞いたんだが』


 あ、と三喜雄は思わず呟いた。そろそろ現在の状況を、親しい人には報告しないといけない。


『ありがとう。家に戻れないのは不便だけど普通に元気』


 三喜雄は返事をした。すると塚山は、すぐにそれに反応してくる。


『手にケガしてるだろ』


 塚山はURLを添付してきた。それをタップした三喜雄は、深田のSNSのページの中で、男2人がマイクを持ち、低い声で歌い踊る様子に笑ってしまう。さっきカラオケボックスで、深田が撮影していたものだ。「片山さんとカラオケに行きました。」としれっとコメントがついている。確かに、三喜雄が左手に包帯を巻いているのがはっきりわかった。

 深田のSNSアカウントは主に歌ネタを扱っており、コンサートが近づくと宣伝もする。カラオケでポップスを歌う姿を載せるのは初めてらしく、随分沢山のいいねや好意的なコメントがついていた。その中の「片山さんこういう曲歌うんだ(踊りもお上手でびっくらこいた)」といった声を見て、踊りが上手いとは思えないが、自分はそういうイメージなんだなと思う。

 塚山のメッセージが現れて、三喜雄は画面を戻した。


『俺ともたまにはカラオケで遊べよ』


 相変わらずこのテノール歌手は、おかしな絡み方をしてくる。三喜雄が誰かと親しくしていると、幼稚な独占欲を披歴するのだ。たまに面倒くさくて、つい返信が言い訳がましくなってしまう。


『カラオケしたのはラスト20分だけ。デカい部屋借りてお互い発声練習してた』

『別にピンクレディ歌ってるのを責めてるんじゃないですよ』

『当たり前です。俺の選曲の自由は誰にも侵させません』

『俺と歌う時は俺が上でよろしく♡』


 どうでもいい会話の応酬だったが、要するに塚山が三喜雄を心配しているということはわかった。避難中に指を痛めたことや現在田町の駅前のホテルに居ること、明日自宅の様子を見に行く予定であることを報告する。

 すると塚山は、カレンバウアーや深田と同じことを言ってきた。


『俺んち来たら? ちょっと駅まで歩くけど、部屋一つ空いてるし、完全防音ピアノつき』


 ちょっと予想できた展開に、三喜雄は冷たく返しておいた。


『家事を全部俺がしないといけなくなるから嫌』

『しなくていいよ』

『まともなもの食いたいし、過度な汚部屋じゃ寝ることもままならぬ』

『全否定はしないが失礼過ぎやしないかね?』


 それにしても、一戸建ての実家に住む深田はともかく、カレンバウアーや塚山は、どうして部屋が余るようなマンションに住んでいるのだろうか。


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