目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

6月 45

 塚山とのやりとりが済んだ頃、雨が降ってきて部屋の窓を軽く叩いた。これから夜中にかけて、東京は強めの雨になる予報だった。

 三喜雄はスマートフォンのカメラで怪我をした左手を撮り、SNSのアプリを開く。深田が三喜雄の住所を特定される可能性に危惧を示していたが、ファンに報告するのも大切かもしれないと思ったのだった。多くの顔見知りも三喜雄のアカウントをフォローしてくれているので、個別に連絡するよりもいいだろうとも思った。


『住んでいるところが火事になり、軽い一酸化炭素中毒と左指の捻挫で2日半入院していました。今日退院し、仮住まいにいます。指以外はもう何ともないのでご心配には及びませんが、ご報告まで。』


 メッセージとともに、写真を投稿する。すると10秒後には、通知がどんどん来始めた。三喜雄は思わず、怖っ、と呟いてしまう。

 通知をチェックしていると時間が溶けるので、三喜雄はスマートフォンをベッドの上に放り投げてから楽譜を開いた。そして、新しい演奏の動画を探してみようと思いつき、カレンバウアーからもらったイヤホンを取り出す。ホテルはwi-fiも使えて、通信費を気にしなくていいのが便利だ。

 外の雨は強かったが、だいぶ気分が上がったのを、三喜雄は自覚した。




 朝になると雨は止んでいた。カーテンを開けて薄晴れた空を見ると、三喜雄はちょっと贅沢をしたくなり、ホテルで朝食を摂ることにした。レストランには日本人と外国人の観光客が半々くらい座っており、日曜の朝らしく席はほぼ埋まっていた。最近よくネットで暴露されているようなマナーが悪い客もおらず、快適に過ごせた。

 ホテルの自室は居心地がいいが、そこで朝晩の食事をすることになることに少し引っかかる。窓の開閉ができる部屋とはいえ匂いが籠りそうだし、寝床の真横で食事をするのはあまり好きではない。職場の近くで、安くて美味しいモーニングを出してくれる店を探してみようかと、三喜雄はとろりとした食感のヨーグルトを食べながら考える。

 歌の練習は、これまでも使っていたピアノつきの音楽スタジオでしかできなくなる。気まぐれに夜に歌いたくなったら、カラオケボックスに走るしかない。そう考えると、歌人生の中で今が一番、自主練をしにくい環境に置かれたことになるようだ。三喜雄はひとつ小さく息をつき、椅子から腰を上げた。伝票をレジに持って行くと、部屋につけておくことができると店員が言うので、そうしてもらった。

 通常チェックアウトの後に入る清掃を、3日に1回で頼んでおいた三喜雄は、読書や譜読みをして部屋の中で午前中を過ごした。昨日のSNSの投稿に反応して、ダイレクトメッセージや別のメッセージアプリから連絡をくれた友人知人に、返事をする(数百人の人からお見舞いを言ってもらえることに感動して泣きそうだった)。

 行きつけの音楽スタジオに空きを見つけたので直ぐに予約して、1時間集中して歌い、左手の様子を見ながらピアノも弾いてみた。明日からの授業は、何とかなりそうだった。

 昼食をスタジオの近くの喫茶店で済ませると、三喜雄は一度ホテルに戻り、カレンバウアーの迎えを待つ。普段の日曜はマンションの管理人は休みだが、焼け出された住人の一時帰宅のために、出勤しているらしかった。三喜雄は管理会社を通じて、都合の良い時間に来てくれたらいいと連絡をもらっていた。

 とにかく、服や洗面道具が必要だ。キャリーケースに、入るだけ詰めて持ってこよう。冷蔵庫にはあまり何も入っていない状態だったはずだが、処分しなくてはいけないものもあるだろう。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?