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6月 46

 カレンバウアーが駅に着いたとメールをくれたので、三喜雄は部屋を出て階下に降りた。宿泊客が居ない時間帯なのでロビーは閑散としており、三喜雄が焼け出されて滞在中の客と知っているのだろう、フロントに1人立つ男性は、軽く会釈して見送ってくれた。

 カレンバウアーは、ポロシャツにパンツという軽装でやってきた。彼は自動ドアから出てきた、学生みたいな恰好の三喜雄を見て、笑顔になる。


「ああ、こんにちは、片山さん……暑いから中で待ってらしたらよかったのに」

「こんにちは……いつもすみません」


 三喜雄は頭を下げた。今日なんか本当に、暑いだけで何も楽しくないイベントだ。来るなら好きにしろなどと思った三喜雄だが、いざカレンバウアーの顔を見ると申し訳なくなった。


「いえいえ、楽しい話を持ってきましたよ」


 三喜雄がカレンバウアーを案内しつつ歩き始めると、彼はフォーゲルベッカーの新作であるきな粉チョコレートのヨーロッパ向けCMに、三喜雄の歌を使うことがほぼ決定したと話した。

 驚いた三喜雄が言葉を返せないでいると、カレンバウアーは軽く三喜雄を覗きこんでくる。


「メゾン・ミューズには早ければ今日中に依頼があるはずです」


 三喜雄は新しい仕事の話にどきどきしながら、カレンバウアーを見上げた。曲によっては、今すぐにでも練習を始める必要がある。


「あの、何を歌えば……」

「3曲挙がっていますけど、小林秀雄の『落葉松からまつ』に決まると思います……歌ったことはありますか?」


 三喜雄は頷く。ドイツに発つ直前に、国見の門下生コンサートで歌った。

 それはよかった、とカレンバウアーは朗らかな笑顔になる。


「私はこの曲を知らなくて、急いで探しましたが、片山さんの声に合うと思いました……やはり歌っていたのですね」

「はい、時間があまり無くて仕上げ切れなくて、ちょっと心残りがある曲です」

「だったら是非心残りを晴らしてほしいですね」


 そんな話をしているうちに、マンションが見えてきた。薄晴れた梅雨空に浮かぶ煉瓦色の壁の建物は、よく見るとど真ん中辺りが薄黒く染まっている。それを見た三喜雄の心臓が、別の意味でどきどきし始めた。

 ……どうして俺が、ここから追い出されなきゃいけない?

 緊張感と同時に胸に湧いたのは、完全なる理不尽への怒りだった。それを振り払うべく、こっそりと深呼吸した。

 ホールに入ると、管理人室の小窓の前にいた管理人が、すぐに三喜雄に気づいてくれた。


「こんにちは、片山さん……お疲れさまです、ホテルで不自由は無いですか?」

「こんにちは、おかげさまで病院よりは快適です」


 三喜雄は管理人に、カレンバウアーを紹介しておいた。CMの仕事のスポンサーだと言うと、管理人は目を丸くした。


「ああ、ドイツのチョコレートの……そんなかたがわざわざ……」

「片山さんは我が社の大切な顔ですから、何の心配も無く演奏できるように配慮するのも私たちの務めなので」


 カレンバウアーが答えると、管理人は部屋から出てきた。そしてカレンバウアーに軽く頭を下げる。


「でしたら片山さんのために、今すぐ住めるいい部屋を探してあげてください……たぶん火事のあった部屋とその周辺は、手を入れないと住むことができません、片山さんの部屋も東側半分は被害を受けています」


 カレンバウアーは管理人に優しく言った。


「貴方のせいではないのですから、顔を上げてください……今から片山さんのお部屋を一緒に見せてもらいます、その上で私たちも片山さんと相談しますね」


 三喜雄が鍵を持っているので、管理人は自分はついて行かないと言った。


「昨日話した通り、足許に気をつけてください……あと、ベランダから消火のための水が少し入ったので、シートがかかってます」


 はい、と三喜雄は応じる。


「あと、漏電が無いのを確認できるまで、ブレーカーを落としてました……冷蔵庫の中身は駄目になってる可能性が高いです」


 それは覚悟の上で来た。あの朝あまり何も入っていない状態だったのは、不幸中の幸いと言うべきだろうか。


「エアコンはつけても大丈夫ですか?」

「はい、でも室外機がたぶん煤まみれなので、臭いがするかもしれません」


 臭いは嫌だと咄嗟に思った。気持ちをなるべく乱さずに部屋を見たいと思っていたが、その考えが甘かったと三喜雄は悟る。

 黙ってエレベーターに乗る自分を、カレンバウアーが心配しているのが伝わってくる。三喜雄はそんな彼に冗談を言う余裕も無かった。6階に到着すると、まだ何となく焦げ臭さが残っていて、気分が塞いだ。


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