黙ってエレベーターに乗る自分を、カレンバウアーが心配しているのが伝わってくる。三喜雄はそんな彼に冗談を言う余裕も無かった。6階に到着すると、まだ何となく焦げ臭さが残っていて、気分が塞いだ。
懐かしささえ感じるドアの前に立ち、鍵を鍵穴に入れる時、手が震えそうになった。ゆっくりとドアを開けると、そこは帰省から戻った時のような穏やかな静けさに包まれていたが、やはり少し忌まわしい臭いがした。
三喜雄はスニーカーを脱いで、足の裏が汚れないことを確認してから、カレンバウアーに上がるよう声をかけた。
廊下を進み、リビングに入ると、ベランダに面した窓付近に青いビニールシートが敷いてあった。左手に視線をやり、床面の異常に鳥肌が立つ。
木目に沿って、床が毛羽立っているように見えた。奇怪な光景に、そこに踏み込むのを躊躇う。三喜雄の後から部屋に入ってきたカレンバウアーはその場にかがみ込んで、ぽろぽろと捲れ上がった床材にそっと手を伸ばす。
「下の部屋の炎の熱で、反ってしまったんでしょうか」
「……ですかね」
どうなっているのかあんなに気になっていたのに、臭いのせいもあって落ち着かず、三喜雄はこの場から早く離れたくなった。捲れ上がった板を踏まないようにキッキンに入り、ゴミ袋を出す。
「片山さん、指示してくれたら手伝いますよ」
カレンバウアーは静かに言った。大会社のCOOにやらせることではなかったが、選別しなくてもいい作業を任せるほうがいいだろうと判断して、三喜雄は口を開く。
「冷蔵庫の中身を捨てたいです、瓶とか缶は中身だけ出してもらって……」
吐水ハンドルを上げると、水はしっかり出た。日本に暮らして数年になるドイツ人は、ゴミを分別してほしいという三喜雄の考えを察してくれたようだった。
三喜雄はカレンバウアーのためにタオルを出し、買っておいたマスクを1枚渡した。リビングのテーブルに置かれたままの、ノートパソコンとUSBメモリは、とりあえず持って行くべきだろう。引き戸を開けて寝室に入ると臭いが籠っていて、気分の悪さが増す。急いで窓を開け、マスクで鼻と口を覆う。
クローゼットを開け、キャリーケースを出した。寝室側のクローゼットの中は、有り難いことにあまり臭わなかった。カレンバウアーと選んだシャツはクリーニングに出したままだから問題ないが、ネクタイも被害を受けてはいなさそうだ。三喜雄は紫色の新しいネクタイと、まだ開封していない、カレンバウアーからプレゼントされたシャツとネクタイをとりあえずベッドの上に置く。
普段着と下着を箪笥の中から適当に選び、大切な書類やハンコを入れた菓子の缶もそのまま持ち出す。レッスンに使っている楽譜と、秋冬に歌うことが決まっている曲のヴォイススコアも選び出した。楽譜は、愛用のトートバッグに入れた。
三喜雄は本棚から、ずっと大切にしているリングノートを引っぱり出した。今すぐ必要ではないが、傍に置いておきたいものだった。あとは、神戸に住む松本咲真に会いに行き、一緒に行った京都の水族館で買った、オオサンショウウオのぬいぐるみ。
靴箱から仕事用の靴を選ぶと、キャリーケースはいっぱいになった。マスクをつけたカレンバウアーはジャムやソースの瓶を洗いながら、浮かない顔になっている三喜雄を心配そうに見ていた。
いつも使っている洗面雑貨や消耗品も選び、キャリーケースに詰め込む。暑くて少し汗ばんできたが、長居する気は最早失せていて、リビング側のクローゼットを確認するのは次回にしようと思った。そこにはスーツとタキシードが収められているので、気になるのはやまやまだが。
「カレンバウアーさん、暑くないですか? エアコンつけますよ」
「いや、もう冷蔵庫は空っぽになりましたよ……他は? 何かありますか?」
「ありがとうございます、えっと……」
近いのだから、いつでも取りに来ることはできる。とにかく今は、この焦げ臭さが耐え難かった。
三喜雄は閉められたままの窓に近づき、ベランダを見た。そして思わず、あっ、と叫び、窓を開ける。
あの前夜に部屋に入れるのを忘れていたガーベラの鉢が、倒れていた。土が溢れて散らばり、青々と葉を茂らせていた植物は器から投げ出され、根を見せてしんなりしている。