三喜雄は思わず裸足でベランダに飛び出し、かがみこんだ。手で土を集め、くったりとしたガーベラを鉢の中に戻した。
この花は、学生時代に深田の門下生発表会を観に行き、出演者プレゼントの余りを分けてもらったものだった。ドイツに渡る前に実家の母に託して、帰国し東京に来る時に、母が増やしてくれた花を株分けした。黄色い可憐な花を定期的に咲かせるので、気温に気をつけて、大切に育てていたのだ。
どうして、部屋に入れ忘れた時に限って。消防車からの放水に当たって鉢が倒れたに違いなかった。土は流されたのか、集めても鉢の半分ほどしか無い。自分の迂闊さが悔やまれ、小さな蕾をつけた茎が項垂れたガーベラの哀れな姿が、涙で滲む。
「片山さん、どうしましたか?」
背中にかけられたカレンバウアーの声に、涙がこぼれた。どうして。命も助かって怪我も大したことなかったけれど、そもそも人災だ。1人の人間の身勝手に、どうして平和な日常生活を奪われなくてはならないのか。
三喜雄は歯を食いしばったが、理不尽に対する怒りと悲しみに涙が止まらなかった。カレンバウアーも靴下のままベランダに出てきて、萎れた植物に気づいたようだった。
カレンバウアーは土のついた三喜雄の右手を取り、ハンカチで拭おうとした。三喜雄は反射的に手を引っ込めようとしたが、手首を強い力で掴まれた。
「やめてください、ハンカチが汚れる」
声がかすれた。駄目だ、やっぱりここに居ると喉の調子が悪くなる。
「駄目ですよ、そっちも……包帯を汚したんじゃないですか?」
「……手、洗います」
カレンバウアーが手を離してくれたので、三喜雄は立ち上がり、部屋に戻った。キッチンで手についた土をぬるい水で流す。こちらに来たカレンバウアーは、萎れたガーベラが植えられた鉢を持っていた。
「まだ枯れてないですよ、ガーベラは丈夫な花だから」
彼は鉢をシンクの横に置いた。両手に水を掬い、ガーベラの根元にそっとそれを注ぐ。
三喜雄は手の甲で涙を拭いた。いろいろなことが我慢できなくて、でも言葉にならなくて、涙になって溢れるばかりだった。マスクの端に、それが吸い込まれていく。
「片山さん、私の家に来てください」
カレンバウアーの静かなまろい声に、三喜雄は顔を上げた。彼はマスクの上の目を、真っ直ぐこちらに向けている。
「こんな風にあなたが悲しむのを見たくない、とりあえずこの部屋のものを全部移して……」
「でも」
その時、ひゅっと喉から風が抜けた。三喜雄の頭の中が真っ白になった。
声が出ない。思わず右手を喉に当てる。カレンバウアーは、すぐに三喜雄の異変を察した。
「片山さん、声……」
三喜雄はマスクの中で口をぱくぱくさせて息を吸い、身体の中から気道に息を送り出そうとしたが、やはり言葉が音にならない。辛うじて、あ、と意味を成さない音が出た。
「無理に話さないで」
カレンバウアーはあくまでも静かに言い、三喜雄に近づく。手を伸ばして三喜雄の左の耳から、マスクのゴムを外した。
「落ち着いて、深呼吸して」
そう言われても、嫌な臭いをこれ以上鼻腔に入れるのは絶対に嫌だった。マスク越しのほうが、まだましだ。カレンバウアーは三喜雄が小さく首を振るのを見て、パンツのポケットから再びハンカチを出し、一度広げて裏向きにたたみ直す。
差し出されたクリーム色のハンカチに、三喜雄は恐々視線をやる。自分でもどうしたのだろうと思うくらい、何もかもが怖くて信用できない気分だった。
「大丈夫、落ち着けば声は出るから」
優しく諭され、三喜雄はハンカチを手にした。それで鼻と口を包むと、嫌な焦げた臭いの代わりに、ふわりと爽やかな匂いがした。そのまま目を閉じ、3回ゆっくりと呼吸する。
すると、背中に何かが触れて、そのまま上半身がゆっくりと、温かい場所に包み込まれた。三喜雄は目を開き、びくりと身体を縮めたが、宥めるように大きな手が背中を撫でた。
「大丈夫、何も怖くないです……涙が止まったら帰りましょう、片山さんは何も失ってはいませんよ」
少し身体から力を抜くと、反動のように新しい涙が溢れた。頼りになる腕にゆったりと囲われているだけで、胸の中に一気に這ってきて肺を圧迫した棘のある蔓が、ぼろぼろと剥がれ落ちていくような気がした。
すると、ひっく、と喉が鳴った。
「……ごめんなさい……」
カレンバウアーに一番言いたいことが、かすれてはいたが音になった。言葉がハンカチに吸い込まれたかと思ったが、背中の手が軽く肩甲骨の間を叩く。
「謝らなくていいです」
「……ほんとにどうかしてて」
「新しい仕事をいろいろ始めたところに火事に遭えば、誰でも気持ちが乱れます……あのガーベラは大切なものなんですね?」