頭のすぐ上から聞こえる声に、黙って頷いた。たまたま受け取った鉢植えだったが、東京での初めての一人暮らしに潤いを与えてくれた。ドイツから帰って実家に戻った時も、庭のプランターで綺麗に咲いているこの花を見て、これまで自分の過ごしてきた歌い手としての時間が、確かにつながっているという実感を得ることができた。
カレンバウアーの優しい声がした。
「あれは私が持って帰ります、元気になるように何とかしてみますね」
そんなことをしてもらう義理は無い。困惑したが、何とかしてほしい気持ちが勝ってしまい、三喜雄は涙をこぼしながら声を絞り出した。
「……お願いします」
すぐに背中が2度叩かれた。しっかりしなくてはいけない、これからいろいろなことを、決めなくてはいけないのだから。
三喜雄はしばらく、カレンバウアーの腕の中で子どものようにぐずぐずしていたが、やがて荒ぶった怒りや悲しみは収まっていった。
カレンバウアーが腕を解いたので、三喜雄は顔の下半分をハンカチで隠したまま、彼の顔を見上げた。いつの間にかマスクを外しているカレンバウアーの、緑がかったカフェオレ色の瞳が、優しく笑う。
「ずっと不安だったり腹立たしかったりしてたんですね?」
三喜雄は俯いた。ちょっと、いやかなり恥ずかしい。
「すみません、どうしてこんな目に遭わないといけないんだって、マンションに着いたくらいからずっと思ってて」
「当たり前です、片山さんは普段の生活を大切にする人のようですし、練習が十分できないのも辛いのだから」
カレンバウアーの指先が軽く前髪に触れたが、彼は遠慮したらしく、すぐにその手を引っ込めた。
「でもどろどろした思いを溜めこむのはよくありません、自分に合ったガス抜きをしなくてはいけないです」
そこでカレンバウアーは、シンクの横のナイロン袋を指差した。
「冷蔵庫に入っていた新品の水とビールです、ホテルに持って行きますか? ただしガス抜きにお酒を飲み過ぎるのはいけませんよ」
使いかけの調味料以外ほとんど何も入っていない冷蔵庫に、酒だけしっかり残っていたのを見られて、別の恥ずかしさで顔が熱くなった。
カレンバウアーに覗きこまれて、三喜雄は視線を足許に向け、彼の声を聞く。
「そういうことも心配だから、うちに来てほしいんです」
「……大丈夫です」
「お酒好きでしょう?」
「はい、好きですけど」
堂々と答える三喜雄に、カレンバウアーは微苦笑した。
「それに私の勘では、片山さんは割と寂しがりなんじゃないかな……そういう人がアルコール中毒になるのは簡単なんですよ」
そんなこと言われても。三喜雄は返事に困る。
カレンバウアーは、もじもじする三喜雄を見るのが少し楽しい様子である。しかし、この場所に長居するのは良くないと判断したのか、立ち去るべく動き始めた。
「さて、行きましょう……片山さんの荷物はそれだけですか? 私はゴミを持ちますね、あとはガーベラ」
三喜雄は植木鉢を持って帰ってくれるカレンバウアーのために、書店でもらった紙袋を出した。ガーベラは相変わらずくたっとしていたが、望みを託して彼に委ねることにする。
キャリーケースを持ち、トートバッグを肩に掛けて、三喜雄はカレンバウアーと共に部屋を出た。鍵がかかる音を聞いた時、もうここには住めないという諦念が胸の中に浮かび、消えた。
管理人は泣き腫らした目をした三喜雄に気づいたようで、心配を表情に浮かべた。カレンバウアーが代わりに説明する。
「部屋を見てやはりいろいろショックだったみたいです」
管理人は、そうでしょう、と同情を示した。
「もし片山さんがこの後すぐにお引越しを決められても、管理会社は通常の退去と同様に対応すると言っています……補修と改装の目処が立たない以上、暮らせない部屋の家賃をいただく訳にもいかないので」
気に入っていた住居だけに、三喜雄は悲しかったが、はい、と答えた。もう自分の中で、新居が見つかるかどうかを別にして、ここから離れなくてはならないのだろうという思いが強まっていた。
管理人に礼を言い、三喜雄は自動ドアから外に出る。天気は変わらず薄晴れで、じわっと暑さが肌に迫る。裏手にあるマンションのゴミ捨て場に寄るべく、生ごみと資源ごみをカレンバウアーの手から受け取った。
「ありがとうございます、ほんとに助かりました」
温厚なドイツ人は三喜雄を見て口許を緩めたが、哀れみのようなものを表情に漂わせていた。
「ホテルのカフェで、冷たいものを飲みましょうか」
三喜雄は了承した。冷蔵庫の中身を分別してくれたお礼に、コーヒーとケーキをご馳走しようと思った。
キャリーケースのコマがアスファルトに擦れて立てる音を聞きながら、2人並んで言葉少なに、ゆっくりと歩いた。三喜雄はもう、2年半暮らしたマンションを振り返らなかった。