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6 超高級な下宿

7月 1

 寝泊まりする場所が変わっただけで、三喜雄の日常が戻ってきた。湿度と気温の高さに耐えながら、昼間は小中学生にドレミを教える。ピアノ伴奏で左手の薬指と小指を使えないのはなかなか不便だが、授業に支障が出るほどではなかった。

 三喜雄の勤務する学校法人は、幼稚園から大学まで一貫して通う良家の子女も多い。中高は男女別である。

 三喜雄は中等科では男子生徒のみを受け持っている。彼らは普段がちゃがちゃしがちだが、住んでいるところが火事に巻き込まれて指を怪我した音楽教諭に対して、いたわりの態度を見せた。三喜雄はやや驚きつつ、彼らがプリントを運んで配ってくれたり、ピアノの屋根を片づけてくれたりするのを見守り、素直に感謝した。

 初等科の児童たちは心情の発露がもっと素直なので、指は痛いのかとか、今どうやって暮らしているのかといった質問をぶつけてくる。彼らは家庭で三喜雄の回答を話すのだろう、4年生の保護者から、宿無しになっている片山先生のためにカンパを募りたいという意見がPTAに出されたようだった。それを笹森から聞いて、三喜雄は仰天した。この界隈には、どうもノブレス・オブリージュらしきものが存在する。

 困惑した三喜雄は初等科の教頭に、気持ちだけで充分なのでカンパは遠慮したいとすぐに伝えたが、良くも悪くも鷹揚な教頭は、片山先生の普段の教育姿勢の賜物だから、児童や保護者の好意は受けてくださいと笑顔で答えた。また、共済から見舞金が出る可能性があるので、総務部に確認するよう勧めてきた。


「家に帰れないなんてそれだけで緊急事態だろ? 先立つものがあるのが一番だよ、受け取っとけ」


 笹森は教頭との面談から戻った三喜雄に、笑いながら言った。ドーナツマスターもたぶん何らかの形で見舞いを出すと、週末に深田から聞いている。有り難くて涙が出そうな半面、カレンバウアーの前で不幸アピールじみたことをしてしまったのを、三喜雄は甚だ後悔した。

 カレンバウアーはあの後ホテルのカフェで、ケーキを奢ってくれなくてもいいから、自分の家に来ることに是と答えてくれたら安心できるなどと、かなり強火で迫ってきた。スポンサーのトップからこんな風に言われて悩んでいるなんて、他人に軽率に相談できない。笹森にも話しづらいので、これからの仕事について連絡してきてくれたマネージャーに、話してみることにした。

 電話をしてきた瀧は、母校のオープンキャンパスのイベントへの出演と、東京の学生合唱連盟の「カルミナ・ブラーナ」は、話をほぼ固めたと報告した。


「教育大学で歌う曲は、CMで使ってる2曲と、片山さんが得意なものをあと1曲お願いします、ピアノ伴奏は器楽専攻の教員が担当するので、伴奏譜をくださいとのことです」

「はい、楽譜すぐにコピーします」

「よろしくお願いします……『カルミナ』は、酒井さんとはちゃんとケリがついてるので、片山さんは心配しないでくれと言ってました……練習スケジュールが来たらすぐ転送しますから、以降のやり取りは担当の学生さんと直接していただいてもいいですよ」

「ありがとうございます」


 事務所を通して仕事をすると、煩わしいやり取りが無くなって本当に有り難い。


「ドイツのフォーゲルベッカーからCMの依頼も来ましたよ、ちょっとお急ぎみたいで、カレンバウアーさんから聞いてますか?」


 瀧に訊かれて、はい、と三喜雄は答えた。


「歌はたぶん『落葉松』になるとおっしゃってました」

「はい、その通りです……ただ伴奏が、あちらはできれば濱さんとおっしゃってるんですけど、濱さんは今月は毎週末コンサートを抱えていて、難しいんですよ」


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