瀧の話に、さすがだなと思う。濱の仕事がいずれもソロコンサートの伴奏だというから、例えばソリストが歌手である場合、1回で最低10曲は弾くことになるだろう。
「確かに濱先生には頼みにくいですね、どなたが伴奏でも私はいいですよ……フォーゲルベッカーの意向に合わせます」
三喜雄は一応自分の希望として、神戸のピアニスト、松本咲真を推しておいた。彼も今忙しいだろうから、微妙なところだが。
話が一段落すると、三喜雄は言葉を探りつつ、カレンバウアーから自宅に来ないかと言われていることを瀧に話した。彼女は、そうですか、と明るく応じる。
「片山さんとカレンバウアーさんがいいなら、構わないと思います……ただカレンバウアーさんは音楽でメセナをしている会社のトップなので、あまり大っぴらにすると、何というか、下衆な勘繰りをする人が出る可能性はありますね」
やはり瀧は、三喜雄の案ずるところを的確に突いてきた。すぐに意見を乞う。
「えっと、下衆な勘繰りって、瀧さんは具体的にどんなものだと思いますか?」
「片山さんはドマスとフォーゲルベッカーの商品に携わってるので、引き立てられて当然なんですけど、依怙贔屓……みたいに受け取る人は、同業者にもファンにもいそうですね」
三喜雄は独りで苦笑した。自宅に住まわせるなんて、依怙贔屓「みたい」ではなく、立派な依怙贔屓だ。
「私はしょぼい歌手だからいいんですけど、カレンバウアーさんの周りで変な噂が立つと嫌だなと思って」
「片山さんがしょぼいかどうかは置いておいて、お気持ちはわかります、あのかたは音楽家ではなく経営者ですからね」
瀧が言葉にしてくれたおかげで、やっと三喜雄は、自分が何を不安に思っているのかがはっきりわかった。カレンバウアーの好意に甘えるのは、一時的なことだから三喜雄自身が納得すればいい。自由に歌える環境は、喉から手が出るほど欲しい。
しかしカレンバウアー、ひいてはフォーゲルベッカーのブランド名に傷がつくようなことになってはいけない。いくら三喜雄がフォーゲルベッカー社の「推し演奏家」であったとしても、カレンバウアーに私生活まで囲われているように思われるのはよくない。
「片山さんが言いにくいことがあるのであれば、私からカレンバウアーさんに言いますよ」
瀧が心配してくれているので、三喜雄は大丈夫ですと伝えた。
「おかしな誤解を招くような振る舞いをお互いしないという話し合いができれば、カレンバウアーさんのお世話になる……かもしれないです」
瀧はわかりました、とややほっとした声色になった。彼女もまた、三喜雄のホテル暮らしがいつまで続くのか、心配していたからだ。
電話を切り、三喜雄は軽く息をついた。札幌の両親と姉一家、藤巻と国見の2人の師、他にも三喜雄の現状を知る人たちに、早く安心してもらわなくてはいけない。そのために、カレンバウアーの家にしばらく下宿し、しっかり練習もしながら、新しい住処を探す。それが一番いいようだ。
そう決めると、何やらまたひとつ、肩の荷が降りたような晴れやかな気持ちになった。