三喜雄がカレンバウアーのアドレスに、彼の家にお邪魔しようと考えている旨を伝えてから、3時間後に返事が来た。忙しかったらしい。音楽スタジオで歌っていた三喜雄は、スマートフォンが震えたので、きりのいいところで声を止める。かすれることも無く、喉の調子は良い。
『わかりました、そのお返事を待っていました。では早速、引っ越しの準備をしましょう。家具店でベッドとカーテンを仮押さえしているので、ひとまず来週ホテルをチェックアウトして、こちらに来ていただくのはどうでしょう』
それを読んだ三喜雄は、はぁ? と思わず小さく叫んだ。仮押さえとは一体? どうしてあのドイツ人は、勝手に先走るのか?
返事に困っていると、カレンバウアーは畳み掛けてきた。
『あの日片山さんの寝室を少し覗きましたが、カーテンのサイズは窓に合わないとひと目でわかりました。また、声楽家は身体が資本ですから、もっと良いベッドを使った方がいいです』
「うっ、うるせぇよ! どうせ安物のベッド使ってるけど、いつの間に俺の寝床をチェックしたんだよ!」
突っ込みどころ満載のメールにかっとなり、独り毒づく三喜雄だった。もう意味がわからないが、とりあえず返す。
『カーテンは用意してくださり感謝します。後で代金はお渡しします。また私は慣れないベッドではよく眠れませんから、今まで使っていたものを持って行きます』
少し間が開き、また返信が来る。
『ベッドとカーテンは引っ越し祝いに贈ります。ベッドはきっと気に入ってもらえると思うので、徐々に慣れてください。部屋にはクローゼットがありますが、タンスや衣装ケースが必要なら、ご自分のものをそのままお持ちください』
だから! 金品で支援してくれなくていいって! 三喜雄はピアノの椅子にどっかり腰を下ろして溜め息をついた。伝わらないのは、育ちの違いだろうか。
しかし、と三喜雄は建設的に考える努力をする。ホテルは滞在すればするだけ金がかかる。それに、焼け出される前に近い普通の生活がしたいならば、カレンバウアー宅に移動したほうがいいに決まっているのだ。
今夜で7泊目になる部屋はそこそこ快適だが、中食と外食の味付けの濃さに既に飽きていた。また手持ちの服に限りがあり、洗濯をまめにしなくてはいけないが、少ない洗濯物にコインランドリーを使うもったい無さが身に沁みる。
三喜雄は気を取り直し、カレンバウアーに新しいメールを打った。
『承知しました。明日から引っ越しの段取りを始めます。お言葉に甘えて、来週土日のいずれかに、まず私だけカレンバウアーさんの家に行ってもいいですか?』
『もちろんです。木曜がお休みなら木曜でもいいですよ。明日家具店に連絡して、至急ベッドとカーテンを入れてもらうよう頼みます』
返事が早いのは、翻訳機能をスマホで使い慣れていることもあるだろうが、カレンバウアーが何となくはりきっているようにも感じられた。
結局カレンバウアーの思惑通りになってしまった気もするが、とりあえず引っ越しが決まったので満足する。やり取りが落ち着いたので時計を見ると、あと10分ほど歌えそうだった。
三喜雄は立ち上がり、木下牧子の「竹とんぼに」の楽譜を開く。高声の曲だが、歌ってみたくて松本に少し低く移調してもらった楽譜だ。データがパソコンの中に残っていたので、コンビニでプリントアウトした。
母校で歌う2曲がドイツ語なので、あと1曲を日本語の、歌詞とメロディが聴きやすい歌を選んだつもりだった。
聴いてくれるのは受験を控えた高校生が中心なので、この曲のひたむきに高いところを目指すきらきらした感じと、少し疲れたら懐かしい場所を思い出してほしいというメッセージが似合うように思う。
高校も大学も、三喜雄にとってはいつも思い出して懐かしめる愛おしい場所だ。高校生たちにとっても、もうすぐ卒業する学校と、これから行く学校がそうであってほしい。
「『なるべく高く、なるべく遠くって、言い聞かせたけれど』……」
三喜雄はゆったりと、温かい声を意識して歌った。カレンバウアーとの生活に対する不安が無いと言えば嘘になるが、歌ううちに、何とかなるだろうという気持ちになった。