カレンバウアーが、もう三喜雄のための部屋は準備OKだとアピールしてくるので、三喜雄は翌日の朝にホテルをチェックアウトした。仕事が終わるまで荷物を預かってもらい、夜にタクシーで目黒のカレンバウアーのマンションに移動する段取りになった。
ホテルの人たちは長期滞在を余儀なくされた三喜雄に常に同情的で、とある知人のマンションに動くと伝えると、よかったですねとねぎらわれた。三喜雄の2週間のホテル生活は、こうして終了した。
何となく一日中落ち着かなかったが、笹森と小学生たちに教えているとあっという間に時間が過ぎた。体育講師の兼松は、あまり器用でない三喜雄が左手の傷を早く癒せるように、先週粘着包帯の使い方を教えてくれた。おかげで湿布をいつもきっちりと固定できて、もうほとんど痛みも無い。それを伝えると、兼松は嬉しそうだった。
カレンバウアーの家に行けば、住所や通勤経路の変更をしなくてはいけないので、三喜雄は総務部から変更届をもらった。引っ越すのだなと実感する。
仕事が終わると、カレンバウアーにメールを入れてからホテルに戻った。フロントに預けていたキャリーケースと2つの鞄を、ベルマンにタクシーまで運んでもらい、新居に出発する。カレンバウアーから教えてもらっていた住所をそのままドライバーに告げた。
三喜雄が今まで住んでいた辺りも悪くない地域だったが、ごみごみした道を抜けてタクシーが向かったのは明らかに高級住宅地だった。敷地の大きな一戸建てが静かに佇み、道幅の広い緩やかな坂がその中を走る。やがて集合住宅が幾つか並ぶのが見えてきたが、比較的低層で部屋数もあまり多くない高級そうなマンションばかりで、三喜雄は早くも怖気付いた。
三喜雄をルームミラー越しに見たドライバーは、きょろきょろしている客に不安を抱いたようだった。
「合ってますか? 住所通りならもう着きますけど」
どきっとした三喜雄は、やや声を上擦らせる。
「あ、はい、部屋を貸していただくことになったんですけど、私も初めてなのでどんなところなのかよく知らなくて」
「そうですか、この辺はいいところですよ」
すぐにタクシーは横にぺたっと広い、レンガ色の建物の前に到着した。高さはあまり無く、5階建てくらいだろうか。建物より少し薄いテラコッタ色の壁が周囲に巡らされ、壁の上から木々の枝が覗いている。ヨーロッパの地方都市にある高級ホテルのようだった。
正面玄関の厚い扉が横に開き、スーツ姿の背の高い男性が出てきた。それを見た三喜雄はほっとしたが、今日から暮らす場所があまりに自分に見合わないので、迎えに出てきたドイツ人と自分との身分の違いを痛感する。
三喜雄がドライバーに運賃を渡していると、カレンバウアーが開いた後部ドアから車の中を覗きこんできた。現れた上流階級風の外国人と普段着の三喜雄を、ドライバーがちらっと見比べる。
開けられたトランクから、カレンバウアーが旅行鞄とキャリーケースを出していた。車外に出た三喜雄は、慌てた。
「あっ、すみません」
「いえ、これだけですか?」
彼は軽々と荷物を持つ。三喜雄はドライバーに礼を言い、黒い車が坂の上に向かうのを見送った。
厚い木の扉は自動ドアで、カレンバウアーがキーのどこかを触ると同時に、しゅうんと音を立てて開いた。中にもうひとつ自動ドアがあり、前に呼び出し用の数字が並ぶインターホンがあったが、やはりドアはカレンバウアーの道を開けるようにすぐに開いた。
広く静かなホールには、ホテルのフロントのようにソファがいくつか並び、エレベーターの傍にコンシェルジュが座っていた。髪をきっちりまとめた制服姿の女性は、カレンバウアーを迎えるように立ち上がる。
「そちらがカレンバウアー様のお部屋にお住まいになられる片山三喜雄様で、間違いございませんね?」
コンシェルジュの問いに、カレンバウアーははい、と答えて、三喜雄にキーを差し出した。
「片山さんの鍵です」