黒いカバーのついた鍵は、随分重かった。三喜雄がそれを受け取ると、コンシェルジュが説明する。
「この建物の出入りはそのキーでお願いいたします、ボタンで正面玄関と」
彼女は今三喜雄が入ってきたドアを手で示してから、左手を向く。
「そちらの東側の出入り口、お車はお使いではないですが、駐車場も開錠できます……紛失されますと入っていただけなくなりますので、ご注意ください」
三喜雄はセキュリティのある集合住宅に暮らすのは初めてで、何やら緊張してきた。
コンシェルジュは続ける。
「私どもがおります時間帯にお客様を呼ばれる際や、デリバリーを注文なさった時は、私どもにあらかじめお声がけくださいますと、スムーズにお通しできます」
「あ、はい……」
今自分が彼女に面通しされているのだと、三喜雄は気づく。コンシェルジュたちの記憶に無い人間は、この先に入れてもらえないのだ。
コンシェルジュに見送られ、三喜雄はカレンバウアーについてエレベーターに乗った。三喜雄が暮らしていたマンションの半分くらいしか部屋が無さそうなのに、エレベーターが2台ある。カレンバウアーが押したボタンは最上階の5階で、エレベーターは揺れもせず、極めて静かに上昇していった。
カレンバウアーは横に立つ三喜雄を見た。
「昨日はあちらの家でいろいろしていたんですよね、今日も疲れたでしょう……夕飯を用意していますから、すぐに食べましょう」
三喜雄はとんでもない場所に踏みこんでしまったという経験のない種類の緊張に、蚊の鳴くような声で、はい、としか言えなかった。
5階には4部屋しかないようだった。カレンバウアーは静かな廊下を進み、奥を目指す。角部屋かよ、と三喜雄は胸の内で呟いた。こんないいマンションの最上階角部屋なんて、お値段はどれくらいするのだろうか。
三喜雄は共用廊下から見える住宅街が、夜の闇に沈んでいく光景に見惚れた。静かだが、家々の窓から洩れる明かりが柔らかく、暖かい。このマンションは小高い場所にあるため、5階でも眺望は高層階並みだ。
カレンバウアーが鍵を開け、扉を引いた。彼はまず玄関の明かりをつける。招き入れられて、三喜雄は肩にかけていた重い鞄を上がり框に置いた。
生活感が無いというのが、室内の第一印象だった。その家が持つ独特の匂いなどがほとんど感じられない。カレンバウアーは廊下の前方に見える、開けっぱなしの扉の中に入った。彼が壁のスイッチに触れると、ダイニングキッチンとリビングに明かりが入る。
リビングの隅に置かれたアップライトピアノが、すぐに三喜雄の視界に映った。古そうなピアノだったが、蓋がつやつやと光っていて、持ち主が大切にしていることが窺えた。
カレンバウアーはその場にキャリーケースを下ろして、言った。
「ピアノはやっぱり嬉しいですか?」
「え? あ、はい……」
実家にもピアノが無く、これまで暮らした部屋にもピアノを置いたことは無い。おおよそ音楽家らしくない部屋で過ごしてきた三喜雄は、ピアノという楽器の存在感に軽く圧倒された。
あまり暑くないのは、リビングの窓が開けられているせいだった。そこから入る風が、梅雨も明けるというのに爽やかだ。カレンバウアーはベランダに面しているらしい、開いた窓に向かった。そして網戸を開けて、かがみこむ。
「これを片山さんに早く見せたくて」
カレンバウアーが両手で持っていたのは、鉢植えだった。真っ直ぐに伸びた茎の先で、黄色い花がほころんでいる。三喜雄は思わず、彼に近づいた。間違いなく、あのガーベラだった。
蘇ってくれたとわかり、三喜雄の胸の中で安堵と喜びが膨らむ。
「ありがとうございます」
三喜雄は黄色い花を見つめてから、カレンバウアーを見上げた。彼も表情を緩める。
「片山さんの気持ちが通じたんでしょうね、あの翌日にはしっかりし始めたので、少し肥料をあげました」
根元では、蕾がついた茎がもう1本伸び始めていた。ガーベラは花が育ち始めると、新しい葉がしばらく出なくなる。花を咲かせることに全力をあげるのだ。
「ほんとに嬉しいです、ありがとうございます」
三喜雄は思わず泣きそうになる。ガーベラが頑張ってくれたことも、カレンバウアーがこんなどこででも手に入る花を大切に扱ってくれたことも嬉しい。もしかしたら、こんなことがいちいち沁みる自分の精神状態が普通でないのかもしれないけれど。