カレンバウアーは鉢をキッチンカウンターに持って行き、その隅に置いた。カウンターの上には、デパ地下で揃えてきたと思しき惣菜のパックが4つ並んでいる。
「食事にする前に、お部屋に案内します」
カレンバウアーはまたキャリーケースを持ち、リビングを出て三喜雄を先導した。
「隣の部屋を片山さんに使ってもらいます、奥は私の寝室です……向かいの部屋も空いてますが、こっちのほうがベランダに向いていて明るいのでいいと思いますよ」
カレンバウアーは扉を押し開け、右手のスイッチに触れた。リビングよりも黄色味を帯びた光が室内を照らす。思わず三喜雄は、わ、と声を上げた。
今まで暮らしていた部屋の寝室の2倍近い広さがあった。実家の三喜雄の部屋よりも広いかもしれない。正面の大きな窓には淡い緑色のカーテンがかかり、壁際に立派なベッドが構えていた。それだけで、もうこの部屋は寝室としての体裁が整っている。
カレンバウアーはクローゼットを開いた。
「沢山衣装が置けますよ、新しいタキシードも作りましょうね」
三喜雄はそこを覗き込み、広さにあ然とする。日曜日にタンスを運びこむことにしているが、要らないくらいかもしれない。
「皺になるといけないものを出してください、私は食事の用意を始めますね」
カレンバウアーは少し顔を三喜雄に寄せるようにして言うと、部屋を出て隣の自分の部屋に向かった。三喜雄はしばしその場に立ち尽くしてしまう。
すぐに出さないといけないものなどそんなに無かったが、キャリーケースを開いて、一番上に乗っていたサンショウウオのぬいぐるみを出した。手触りを確認しながら、ベッドの真新しい布団の上に置く。カーテンに合わせているのか、布団や枕には若草色のシーツがかけられていた。
まだ袋を開けていない、カレンバウアーからのプレゼントのシャツとネクタイは、クローゼットの棚に置いた。キャリーケースの底に詰めてあった靴を持って玄関に向かうと、ラフな姿になったカレンバウアーがリビングから出てきて、大きなシューズボックスを開けてくれた。そこには彼の靴が10足ほど入っていたが、スペースには余裕があった。
ついでにカレンバウアーは、浴室とトイレの場所を教えてくれた。立派なドアの奥が、どちらもやたらと広そうなのが想像できた。
ダイニングに行くと、パックに入っていた惣菜が大きな皿に移し変えられて、テーブルの上に並んでいた。温められたラタトゥイユ風の野菜とトマトのパスタから、いい匂いがしている。取り皿と箸もちゃんと置いてあった。
カレンバウアーは大きな冷蔵庫から、麦茶のペットボトルとにぎり寿司のパックを出した。手慣れた様子なので、全く台所に立たない訳ではないのだと思う。
「私は食べられませんから、片山さんのです」
手伝うつもりでキッチンに回るとパックを手渡されたが、8貫で2380円の寿司なんて、食べたことが無い。きれいな色のトロマグロや大きな生エビに、三喜雄は目を剥いた。
「あっ、お寿司はだめでしたか?」
カレンバウアーは眉をハの字にした。三喜雄はぶんぶんと首を横に振る。
「でっ、でも、こんなに食べられません」
「確かに少し多いかもしれませんね、明日まで保たないものを先に食べますか」
座るよう促されて、三喜雄は椅子を引いたが、まさか毎日こんな食事だったらどうしようかと危機感を覚えた。
歌手は声を身体全体に響かせなくてはいけないから、太っているほうがいいという話は、もう昔のものだ。歌うために有効なのはインナーマッスルを含む筋肉を鍛えることで、無駄に太ると肺機能が低下し声が痩せる危険性がある。ヴィジュアル的にも普通体型のほうがいいに決まっているので、すらりとした塚山天音がもてはやされ、オペラの舞台でひっぱりだこなのだ。