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7月 9

 三喜雄の体重の増減は、大きくはない。歌い続けるうちに首や腰回りがややがっちりして胸も厚くなったが、太ったとは思っていない。現在、体調も喉の調子も悪くないので、贅肉をつけたくはないのだが……。

 三喜雄は手を合わせ、いただきます、と呟いてから、箸を取る。カレンバウアーは箸が使えるようで、取り皿にラタトゥイユの茄子や玉ねぎを器用に移し始めた。


「遠慮しないでくださいね、疲れてあまり食欲が無いですか?」

「そんなことないです、豪勢で驚いただけです」


 三喜雄の返事に、カレンバウアーはああ、と苦笑を見せた。


「この家で誰かと食事をするのは初めてなので、ちょっとはり切り過ぎました」


 初めてと聞いて驚いた三喜雄だが、よく考えると独り暮らしのCOOが、ここに社員や取引先の人間を呼ぶことは無いだろう。ホームパーティを催すようなコミュニティに参加していたとしても、三喜雄だったら自宅を貸して1人でホストはしないと思う。


「そうでしたか、えっと……俺も東京に来てから、滅多に人の家には行かないので、歓迎してもらって嬉しいです」


 その言葉に嘘は無かったが、にっこりと嬉しげに笑うカレンバウアーを見て、罪悪感に似たものが混じった困惑が胸を掠めた。

 高崎、どう尋ねるんだよ。三喜雄は昨日やり取りした後輩に脳内で話しかける。おまえならたぶん、スマートに立ち回るんだろうけど。

 カレンバウアーに何と尋ねる? 俺をこの家に熱心に呼んだのは、どうしてですか? 親切は本当に有り難く思っています、でももしかして俺に下心があるとかですか?

 ……無理だろ! 非ならもちろん、是でもかなり失礼じゃないか! 三喜雄は新鮮そうなフリルレタスやエンダイブを取り皿に移し、酸っぱいドレッシングを味わったが、恵比寿で肉を食べた夜のようには会話が弾まない。

 やがてカレンバウアーも、やや困ったように言葉を繰り出した。


「やっぱり片山さんは、何がどうなってこの状況になったのかわからないのですね」


 三喜雄はどきっとしたが、言葉が上手く見つからない。


「いや、その……俺としては、家のことはほんとに有り難いと思ってますし……ただ、何というか」

「何ですか?」


 今しか無い。三喜雄は下腹に力を入れた。


「……こういう、特別扱いされることに慣れないというのか、特別扱いされる理由が……」


 三喜雄が慎重になっていることに気づいているのかいないのか、カレンバウアーはのんびりとその言葉を反芻した。


「特別扱い……そんな風に感じますか?」

「いくら俺がフォーゲルベッカーにスポンサーのようにしてもらっていて、焼け出されて可哀想だったとしても、トップの自宅に転がりこむとは誰も思わないです、たぶん」


 カレンバウアーはふっと笑う。


「まあ確かに、片山さん相手でないとそんな発想にはならなかったかもしれませんね……あ、お箸は止めないで」


 言われて三喜雄は、気持ちが揺れたのをごまかしたいこともあり、エビの寿司を摘んだ。それを口に入れてもぐもぐする三喜雄を、カレンバウアーは楽しそうに見つめる。


「音楽家が安心して演奏できる環境をつくるのは、会社のひとつの使命ですから、それに沿っているつもりです」


 生エビは甘くて弾力があり、故郷で食べるのと同じくらい美味だった。良い具合の固さに炊かれたシャリと一緒に噛むと、別の甘味と一緒にエビがとろけていく。


「そうやって美味しそうに食べる片山さんを見るのが好きというのも、あります」


 カフェオレ色の瞳に観察されて、三喜雄の体温がじわっと上がる。


「……今から話すことが不愉快なら、あなたのために至急別の部屋を探しますけど……」


 何を話すんだ。三喜雄はよく噛んだ寿司をゆっくり飲み込んで、やや身構えた。

 カレンバウアーは箸を取り皿の上に置き、やや伏し目になった。


「私はたった1人の大事な息子を、6年前に亡くしています……基礎学校を終えて翌月からギムナジウムに行くことが決まっていました」


 ということは、当時10歳。カレンバウアーの秘書の武藤から聞いていたので、大きな驚きは無かった。


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