カレンバウアーの軽く高揚した言葉から、フォーゲルベッカーが自社のCMで、三喜雄の伴奏者の候補に松本を入れていることが察せられた。
「愛知県より西で活動する演奏家の情報は、私たちもしっかりフォローできないのが実情ですから……そういう意味でも興味深いので、本社に推しておきます」
意外な話の流れに、三喜雄は姿勢を正す。
「あ……ありがとうございます、もし彼と演れるなら俺も嬉しいです」
すると、カレンバウアーの目が少し真剣味を帯びた。彼の表情が不意に変化したことと、やはりそのきりっと整った容貌に、三喜雄は少しどきっとした。
「親しい友人や家族とのアンサンブルは、息の合ったものになる反面、緊張感が失われがちです……松本さんと『落葉松』を演るなら、そこは気をつけてほしいところです」
彼の言うことは十分理解できた。はい、と三喜雄は力強く返した。明日はピアノを借りて、『落葉松』を歌ってみよう。そう思うと、わくわくする。
この家に身を寄せるという決断が、より良い結果をもたらしてくれたらいい。三喜雄はサンショウウオの頭を無意識に撫でながら、考えていた。
カレンバウアー邸のトイレと浴室には、窓があった。トイレは臭いが籠らないし、外から覗かれる心配も無く、浴槽に浸かりながら夜空を眺めることができるようだ。これが高級マンション最上階角部屋のメリットなのかと三喜雄はほとんど感動を覚えた。
先に風呂を使えと言われた三喜雄は、湯を溜めていいのかわからず迷っていたが、バスタオルを持って三喜雄の様子を見にきたカレンバウアーは、がっかりする発言を為した。
「お湯はりですか? 今年の初めの寒い日に何回かしましたね、それ以来全く使ってません」
焼け出された日以来ずっと、しっかり湯に浸かることができなかった三喜雄は、残念に思った。そしてそれを顔に出してしまった。三喜雄の表情の変化に気づいたカレンバウアーは、らしくなくちょっとおろおろする。
「片山さんごめんなさい、日本人が浴槽を毎日使うことをすっかり失念していました」
三喜雄は彼がそんなに困惑するとは思わなかったので、彼と同じようにおろおろする。
「いえ、構わないです、暑いですし……あっでも明日一度浴槽にお湯をはって、風呂釜の掃除をしてもいいですか?」
「もちろんです」
「広い浴槽でいいですね……あっ、水道代とガス代がちょっと上がるかも……」
三喜雄の庶民的発言に、カレンバウアーはぷっと吹き出した。
「ほんの少しのことでしょう? 気にしないでください、お湯を溜めるなら一緒に入ることもできますね」
にこにこしながらカレンバウアーは言ったが、三喜雄は固まった。待て、一緒には……入らないぞ。
カレンバウアーが温泉を含む公衆浴場を念頭に置いて話しているのはわかったが、否定しておいたほうが良さそうだ。
「あー、あまり家のお風呂には誰かと一緒に入らないと思います、小さい子が親と一緒は事故防止のためにアリです、あとは……仲良しのカップルとか?」
異文化交流だなと思いつつ三喜雄が説明すると、カレンバウアーはいつぞやのように、目を丸くしてから恥ずかしそうに下を向いた。その耳が赤くなっている。
「なるほど、他人と入るのは、大きな公共のお風呂でのことなんですね」
外国人は大浴場に戸惑うと聞いたことがあるが、カレンバウアーは会社の慰安旅行か何かで、社員たちと入浴した経験があるのかもしれなかった。
「そうですね、でもこのお風呂は広いので、カレンバウアーさんが背中を流してほしいときはいつでもおっしゃってください」
三喜雄は笑顔でフォローしたが、あまり効果が無かった。カレンバウアーは三喜雄にバスタオルを手渡し、ごゆっくりと言ってから、そそくさと洗面室から出て行ってしまった。